小さなヨハネ

 

 

 

1.デボラ

2.マリア・ワルトルタ

3.ヴァッスーラ

4.十字架のヨハネ

5.仁慈の中にいる者たちは自らを卑しうし、最低の者であるとして、凡ての者に仕えようと願っている

6.それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体

 

 

 

 

 

1.デボラ

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P139

 

神様のみ旨に従った他の多くの人々のように、あなたも私の小さなヨハネです。

 

 

 

 

啓示による黙示録解説6

 

黙示録1・2「彼(ヨハネ)は神の聖言とイエス・キリストの証を証しした。」

 

 ヨハネにより仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たち凡てが意味されているため、それで霊的意義ではこれら凡ての者が意味されている。聖言の霊的意義の中にいる天使たちは、聖言に記されている人物の名は全く知っておらず、ただその人物が表象し、そこから意味しているところのもののみしか知っていないのであり、それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体である。これらの者が「証する」のである。即ち、聖言の諸真理を、特に主の人間的なものは神的なものであるというその聖言の真理を見、承認し、心から光の中に受け入れ、告白するのである。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P311

 

ご自分のお母様のいろいろな苦しみを照らす、エピソードを集めた小さい本の編集のためにイエズスの訓戒は、次のことばで終わる。

「・・・私の贈物を単純な心と信仰とをもって受け入れる人々は、祝されよ。この人々には、御父が望む火が、より盛んに燃えるだろう。世間は、自分の残酷さを変えることはあるまい。もうすでに、あまりにも堕落しているので。しかし、先に言った人々は、今のヴィジョンを読み、黙想して慰められ、聖徳の泉である神への渇きが、自分の中に成長すると感じるだろう。

小さなヨハネ、平和に行きなさい。あなたのイエズスは、あなたに感謝し、祝福している」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P321

 

(主がマリア・ワルトルタに)

小さなヨハネ、以上は、今日の教訓である。心を清く保ち、恐れるな。私のことばと観想を通して、私の平和はいつでも、あなたの心に流れ込むだろう。おいで。イエズスの胸を枕とし、マリアを看護婦として、持っていたヨゼフであるかのように考えよ。私たちの間に、揺りかごの中の子供のように休みなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々/1巻P313

 

老ヨハネ(マリア・ワルトルタのそばにいた神父様のこと)に、たくさんの平和と豊漁とを与えると伝えなさい。あなた(マリア・ワルトルタのこと)には漁がない。私が与える糸で網を作るという女性的な業だけをあなたに与える。働きなさい、働きなさい・・・他のことができないという考えを捨てなさい。この仕事にはすべてがある。そしてまた“あなたに平和”と言いに来ないからと言って気にするな。人にあいさつをするのは、到着したときと出発するときであって、いつも一緒にいるときにはしない。一緒にいることは、もはや平和である。そして、あなたは私の客ではない。あなたはすっかり私の腕の中にいて、片時もあなたから離れたりしない。この世にいたときの私について、言いたいことがたくさんある! しかし、きょうはあなたを喜ばせたいので“あなたに平和”と言おう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P390

 

主:「小さなヨハネ(ワルトルタのこと)、いつもあなたの手を私の手に委ねて歩きなさい。そうすれば、安心して真っすぐ御国に至るだろう。私は、あなたに、“入りなさい”ではなく、“いらっしゃい”と言い、私の腕に抱き締め、私の愛があなたのために住まいを準備したところへと連れて行く。

平和に行きなさい。あなたを祝福する」

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P44

反キリストの軍隊はすでに行動を開始している。

‘44年8月5日

 

 イエズスは言われる。

「わたしは貴女がわたしの栄光について瞑想するように準備させた。教会は明日それを祝う。しかしわたしはわたしの小さなヨハネが、わたしの栄光の真の姿を見てそれをよりよく理解するように望む。わたしが貴女を選ぶのは、貴女のの悲しみと苦しみを知らせるためだけではない。苦しみにおいてわたしと共に在ることを知る者は、わたしのよろこびにも参与しなければならない。わたしは貴女が、貴女にあらわれる貴女のイエズスの前で、わたしの使徒たちと同じ心情と謙虚さと悔い改めの気持ちとを持つことを望んでいる。

 

 けっして傲慢になってはならない。そうなれば貴女は罰せられ、わたしを失うだろう。わたしがだれであり、貴女が何者であるかを絶えず思い起こすように。痛悔によって浄められた心を持つために、絶えず自分の至らなさとわたしの完全さとに思いを致すように。だがそれと同時に、『恐れるな。立ち上がりなさい。行きなさい。人々のあいだに行きなさい。なぜならわたしは彼らと共に在るために来たのだから。この来臨の時をよく憶えて、清らかに、剛く、忠実でありなさい』と言ったわたしに、大きな信頼を寄せなさい。わたしはこのことを貴女にだけではなく、人々のあいだからわたしが選んだすべての人たち、特別な形でわたしを所有している人々にも言うのだ。

 

 わたしのことを怖がってはならない。わたしがあなたたちに姿をあらわすのは、あなたたちを高めるためであって、あなたたちを灰に帰するためではない。立ち上がりなさい。恩恵を受けるよろこびがあなたたちに生きる力を与えるように。わたしがあなたたちに天を示したからといって、もうそれで救われたと思いこみ、無気力な麻痺状態に沈みこんではならない。人々のあいだに共に立ち交じろう。わたしはあなたたちが、わたしにとってより大きな助けとなるように、超人的なヴィジョンと教えとを用いて、あなたたちを超人的なわざにいざなったのだ。わたしはあなたたちを、わたしのわざに参与させるのだ。

 

 だが、わたしは休息を知らなかったし、今も知らない。なぜならはけっして休むことをしないし、のしわざを出来るだけ無効にするために、は常に活動していなければならないからだ。わたしたちが休息するのはが成り終わるときだ。今は倦むことなく、絶え間なく行動しなければならない。の取り入れのために、ゆるむことなく粉骨砕身しなければならない。どうか、わたしとの持続的な触れあいがあなたたちを聖化し、わたしの教えが絶えずあなたたちを強め、わたしの寵愛が、あらゆる障害に反対してあなたたちを忠実な者にするように。

 

 啓示について教えながら、それを信じておらず、時のしるしもに遣わされた人々も見分けることが出来なかったいにしえのラビたちのようであってはならない。反キリストの軍隊は進軍を開始しているから、わたしが自分に課した破格の措置をとってキリストの再臨にあたっては、その先駆者たちを見分けなさい。―なぜならわたしはあなたたちがある種の真理を、超自然的な精神によってではなく、人間的な好奇心の渇きによって飲むことを知っているからだ―わたしは真底からあなたたちに言う。多くの人々はすでに目前にしている平和を反キリストに対する勝利だと思いこんでいるらしいが、それはキリストのに、活力を養い、傷を手当てし、もっと残忍な戦いにそなえてその軍勢を集めるための時間稼ぎ、一時的な休戦状態にすぎないのだ。

 

 正義をもって裁き、戦う諸王の誠実真実、また、とその手下と預言者たちの征服者となるこのあなたたちのイエズスの『声』であるあなたたちを見分け、あなたたちのを見分け、いつもそれに従いなさい。どんな偽りの外見もあなたたちを誘惑せず、どんな迫害もあなたたちを打ち倒さないように。あなたたちの『声』がわたしの言葉を語るように。あなたたちの生活はこのわざに捧げられるように。

 

 そしてもしあなたたちがこの世で、キリストとその先駆者、またエリヤと共通の運命を有するなら、それが残酷な運命、精神的な暴力にさいなまれる流血の運命であろうとも、その運命をあなたたちはキリストと共に、その先駆者と共に預言者と共に有するであろうあなたたちの未来の保証された運命に微笑みなさい。働きにおいて、苦しみにおいて、栄光において同等だ。此岸(しがん)では、わたしであり、模範である。彼岸(ひがん)では、わたしが報いであり、である。わたしを有することが、あなたたちの至福となるだろう。苦しみを忘れることだろう。そのことをあなたたちに理解させるためには、どんな啓示も不充分であろう。なぜなら、未来の生活のよろこびは、まだ肉に結びつけられている被造物の想像力の容量をはるかに上回るからだ。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P52

‘44年9月12日

 

 厳しい書取りだ。わたしの小さなヨハネのことを思うと、わたしの胸も痛む。しかしわたしは愛撫で勇気づける。その愛撫とは、すべての人が貴女を見捨てたとしても、わたしは貴女のそばにとどまるということだ。すべての人が貴女を忘れ去っても、わたしは貴女を憶えている。すべての人が貴女を憎むとしても、わたしは貴女を愛してやまないだろう。必要とあれば精神的にはもちろん物質的にも、体力を与えることによって、どれほどわたしが貴女を助けるかを見ただろう? 貴女はわたしの手のなかの、愛すべき道具なのだ。恐れてはならない。

 

 貴女の使命のうちで、使命のために生きるように。レンズに目を凝らしている間は素晴らしい風景を見せるが、レンズから目を離せば、黒い箱にすぎない万華鏡をもらった子供たちのようでありなさい。貴女は、わたしと貴女の使命に目を凝らしなさい。現世は貴女の周りにある。周りにあるべきだ。だが貴女の内部にあってはならない。内部にあるのは、わたしの世界だ。無知で盲目なこの哀れな世に、わたしの世界から貴女にもたらされる教えと光を与えなさい。貴女の働いている周りにどれほどが現前しているか、もし貴女に見ることが出来るならば!・・・

 

 ああ!貴女が哀れな世界から、そうと気づきさえもせずに、わたしの世界に足を踏み入れ、一つのヴィジョンから現実へと移行し、ちょうど母親を夢に見、自分を抱き締める母親と共に目覚める赤ん坊のように、貴女がいつまでもわたしの世界の内にあることに気づく時、貴女はどれほど幸せであろうか。わたしは貴女に対してこのようにするつもりだ。

 善良で、忍耐づよく、情け深くあるように。そして恐れてはいけない。わたしは貴女にわたしの平和を与える。きょう、マリアの御名の祝日に、わたしは貴女に溢れるほどの平和を与える。そしてそれがわたしの小さなヨハネへの恵みの賜物であるように。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P71

黙示録の四頭の獣(ダニエル書7)

 ‘44年1月25日

 

イエズスは言われる。

「ダニエルはヨハネと同じ音色をもつ人であり、そしてヨハネはダニエルの初めの音色を集め拡大する人である。小さなヨハネよ、それが、こんなに貴女の気に入ったのだろう。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P104

 

 わたしの建物の頂点である。わたしの言葉より高く、より真実な言葉はありえない。しかしわたしのはより小さな『言葉』を語る口に宿っている。のものであることを語るあらゆることはに吹き込まれた言葉なのだから。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P470/123・1

1945年3月4日

 

 イエズスはわたしに言われる。

わたしの魂よ、この二重の労苦を辛抱してください。苦しみの時です。この数字来、わたしがどんなに疲労しているかわかりますか? あなたはそれを見ています。わたしはヨハネのところに、ペトロのところに、シモンのところにユダのところにも行き、寄り掛かるのです・・・ええ。そしてまた自分の衣に軽く触れただけで奇跡を起こしていたわたしは、あの心を変えることができなかったのです! 小さなヨハネよ、最期の日々にわたしがあの強情で愚鈍な人びとにすでに語り、わたしの苦悩の告知は彼らを貫くことなくその上を流れて行ってしまったその言葉を再び語るために、わたしをあなたに寄り掛からせてください。また、先生にアックヮ・スペツィオーザのうら悲しい平原でのその説教の時間を語らせてほしい。そしてわたしはあなたを二度祝福するだろう。あなたの苦労とあなたの献身のために。あなたの努力を数え、あなたの涙を拾い集めます。兄弟たちへの愛のための努力には、人びとにを知らせようとして自らを使い果たす者への報酬が与えられるでしょう。最後の一週のわたしの苦しみに流したあなたの涙には、イエズスの接吻が賞として与えられるでしょう。書きなさい、そして祝福された者でありなさい」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館第4巻上P77

 

 それから、今夜わたしのイエズスは私に微笑みながら言われる。

わたしはあなたをダニエルと呼ぶべきだろう。あなたは望みを持ち、あなたのを熱望しているので、わたしにとって大切な人です。わたしの天使によってダニエルに告げられたことをあなたに言い続けることができます。『恐れることはない。の前に心を尽くして苦行し神意を知ろうとし始めたその最初の日からお前の祈りは聞き入れられており、お前の祈りのためにわたしは来た』(ダニエル10・12)。しかし、ここで話しているのは天使ではありません。わたしイエズスが話しているのです。

 ああ、マリア、誰かが『神意を知ろうとして心を傾ける時』、わたしはいつでも来ます。わたしは厳しい、容赦無用のではありません。わたしは生ける憐れみですわたしを求める人のところへ、考えるよりも素速く行きます。そして、こんなにも罪の中に浸っていた哀れなマグダラのマリアのもとにも、彼女のうちに神意を知ろうという願望が生まれるのを感じるやいなや、素速くわたしの霊と共に行きました。神の光に照らして理解し、彼女の闇の状態を理解することでした。そしてわたしは彼女のとなりました。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P77

‘44.1.25

 

 それからイエズスはわたしに言われる。

「わたしの授業にこれほど注意を傾倒する貴女を見ると、自分にとって全面的な『人知』であるその教師に対して勤勉で、懐いている女学生のように思われる。それに反して、貴女が自分で新しい部分を発見し、批判的見解(これはヴィジョンの中で)を述べる時、貴女は、父親にその小さな手を引かれ、導かれて行く善良な男の子をわたしに思い浮かばせる。父親は息子を前方に導きながら、彼が知恵において成長するように、見ることしか望まない。しかし同時に、幼い息子に、自分で新しい何かを発見する喜びを味わわせ、自らの考えにおいて成長するのを感じさせるために、口出しはしない。

 こうするために、貴女は人間的な懸念を一掃していなければならない。ますます一掃するのだ。貴女は、凝視の小道を気後れせずにのびのびと歩いて行くために、ますます確信をもち、ますます平穏に、あなたの手を引いているわたしに全幅の信頼を寄せていなければならない。

 父親はそれと気付かせはしないが、彼が息子に見せたいと願うあの一定のものを息子が見るまでは、そのために数限り無い、愛のこもる手を尽くす。おお! わたしはこの父親にも優って愛情深い父であり、わたしの小さい人たちにとり、どんな教師にも優って忍耐強く、その中の温順で注意深いひとりの手を引くことが出来る時、わたしは幸せだ。であり、であることの幸せだ。

 わたしの子供たちが、わたしに導かれ、教えられるために、信頼をこめてその手をわたしの手に預け、『万事に超えて、またわたし自身のすべてを捧げてあなたを愛します!』と、わたしに言うのは何と難しいことか。何のためらいも無く心の底からこのようにすべて『わたしのもの』である僅かな子たちに、わたしは啓示の、また凝視の財宝を開き、何のためらいも無く、心の底からわたしを与える。

 マリアよ、しかし、を垣間見るために目覚めさせられ、導かれる必要のある人びとに、その様々な顕示によって、わたしの神性を広める役割のために貴女を選んだのだから、貴女が見ていることを繰り返すに当っては、極度に用意周到であることを思い出しなさい。どんなくだらない一句にも或る価値があるし、しかも貴女の一句ではなく、わたしの一句なのだ。だからそれをあなたが押さえておくのは正当ではない。不誠実であり利己的だといえよう。貴女は、皆がその水を汲みに来るためにそこに流れ込む神聖な水の貯水槽だということを思い出しなさい。

 書き取りにおいて貴女は最高に忠実な忠実さに達した。凝視によって貴女は多くのことを見るが、書き急ぐために、あるいは貴女の健康や環境など特別な状況もあって、若干、細部を省いてしまうことがある。それをしてはいけない。ページの末尾に書き込んでおき、全部に印を付けておきなさい。叱っているのではなく、貴女の先生の優しい助言なのだ。

 数日前、貴女はわたしに言った、『人びとが、すべてわたしの苦労とわたしの人生を正当化し、払い直しているわたしを通して、もう少しあなたを愛するようになればいいのに。たった一人でもいいから、あなたの<隠れた菫>を通して、あなたのもとへ戻ってくれたら、菫は幸せでしょうに』と。

  あなたがより注意深く、より几帳面であればあるほど、わたしのもとに来る人たちの数は夥しいだろうし、貴女の現在の霊的幸福と未来永劫の幸福もまたより大きいだろう。

 平安に行きなさい。あなたのはあなたと共にいる」。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P156

 

あなたたちの中にあるはずの愛は、彼らからすべての恐れを追い出すようにせよ。ヨハネの手紙にあるとおり(ヨハネ第一の手紙4・18)。しかし恐れを抱かせる人にも完全な愛はない。それで“どうしたのか”と言うな。“さあ、ここを去れ”と言うな。“お前のような人は、よい愛に対しての趣味を持っているはずがない”と言うな。その代りに、私の名前でこう言え。“愛せよ、そうすれば私があなたをゆるす”“おいで。イエズスの腕が開かれている”と。“天使のパンとこの言葉を味わい、地獄の瀝青とサタンの嘲りを忘れよう”と言え。

 使徒は、自分と他人の十字架といっしょに自分と他人の弱さを背負うべきである。そして、傷を受けている羊を背負って私のところに来る時に、このさまよった人をこう安心させて“今からすべてが忘れられた”と言え。

 そしてまた“救い主を恐れるな。彼は天からあなたのために、本当にあなたのために来られたのです。私はあなたを待っている。あなたを聖なる牧場に連れて行きたい。彼のところにあなたを渡す橋にすぎないのである”。

 以上の言葉は、よい牧者にいつも誠実であったあなたたちにあまり関係ないかもしれないが、しかし、あなたの心に信頼を大きくし、多くの人にとって私に来るように励ましとなり、しおれかかった花の再生に役立つ露となるであろう。顔を上げよ。天は上の方にある。マリア(著者のこと)平和に行け。主は、あなたとともにおられる。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ652/天使のたより第6号P28/天使館

 

 さて、今は? あなたたちは師に何か言いたいことがありますか? わたしに話さなくてもいいのです。だがあなたたちの心の中で話し、ただそれをすることが出来るなら、小さなヨハネに話しなさい。しかし、この二つのどの場合にも、わたしがあなたたちのうちに見たいと思うあの正義をもって話しなさい。なぜなら、このキリスト者、この姉妹、神のこの道具に対する愛徳を踏みにじって、あなたたちは小さなヨハネを苦しませるからです。もう一度、まことにあなたたちに言いますが、わたしの道具となることは、静穏な喜びではありません。苦労と努力の連続であり、世は師に与えたもの、すなわち苦しみを、その弟子たちに与えるから、すべてに苦しみがあります。少なくとも司祭たち、特に信徒同朋たちは、自らの十字架を負って進んで行くこれらの小さな殉教者たちを助ける必要があるでしょう・・・

 

 

 

マリア・ワルトルタ/『イエズス・たそがれの日々』/P7

 

おまえの苦労は終わった。今は愛と報いを味わうがよい。私の疲れを知らない声、おまえに平和と祝福あれ。ありがとう。おまえのイエズスが言う。『私は何時までも一緒にいよう。愛している人々とともにいることは私の喜びだからである。』

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P20

 

私は数分の間待っていました。立ちながら、私の頭上の死を自分で検討していると感じている間、英雄的に立ち尽くしながら。オルレアンのジャンヌのように私は言っていました。「神さまに一番に仕えさせてくださいますように!」しかし神さまは彼の哀れな召使いの苦しみによって仕えられることを望まれたのでした。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P21

 

美とはほど遠い利己主義。受難なしにクリスマスに天国へ行くとは! まず十字架、十字架上の長い、長い苦悶が必要なのです・・・!そしてそれから天国の栄光がくるのです。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P23

 

 主のぶどう畑での自分の大事な仕事が奪われるとき、私たちは激しく苦しみます。私は主のために働くこの自由をなんとしても守ってきました。今やそれはほかでもない主によって奪われようとしていました。後になって私たちはこれが大いなる名誉、神の信頼、神の私たちへの愛であることを理解するのです。しかしまず私たちは苦しみます。それは私たちの受難を生き通さねばならないゲッセマネの最初の時間のひとつなのです! 私たちの涙の中で、「御旨が成りますように!」ということはどれほどの犠牲を払うことでしょうか。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P24

 

「すでにあなたに言ったように、愛が大きくなればなるほど、苦しみも増します。ですから愛が大きくなるところでは、苦しみも大きくなるのです。」御自分のベッド、御自分の玉座、御自分の祭壇、つまり十字架を与えてくださる神のこの試練以上に愛が大きく育つところがあるでしょうか?

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2009.10/5号/P56

 

 私はその奉献において神に何人かの魂を、特に私の両親とマリオの魂を神へと連れて行くという喜びを与えて欲しいと願いました。

 しかしここでも、要望それ自体は良いものであっても、手段が間違っていました。私はまだ、祈りは重要ですが、でも犠牲がすべてであるということを知りませんでした。言葉は効果があります。しかし、犠牲を覆う沈黙は千倍のことをなします。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2009.10/5号/P56

 

 私はいつも口に猿轡をはめられているような感じがします・・・私はできるだけ話さないようにしています―というより、むしろ、愛の力が本当は話したいという渇望を与える時でさえ、宗教的な事柄はできるだけ話さないようにしていました。

(中略)

 1923年と1924年のかなりの部分はこのように過ぎました。家族内では非妥協と専制だけがありました。しかし私は神に逃避していました・・・。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/霊のパン/2009.10/5号/P58

 

 魂とイエズスとの間で交わされた対話の中でイエズスは尋ねます。「あなたは私の杯を飲めますか?」そして魂は答えます。「はい、飲めます。私は主のようになりたいのですから。麦の粒は死ななければ、実を結ぶことがないことを理解しましたから。十字架に架けられるときのみ、魂は神に引き付けられることを理解しましたから。そしてとりわけ、あなたの渇きは愛のほかどんな飲み物も潤すことのできない渇きであることを理解しましたから」。

 神に身を捧げるとは、したがって、苦しみに身を捧げるということです。

 しかしキリストのために、キリストと共に耐えるのは苦しみなのでしょうか? いいえ、それは喜び、とても深く、限りのない喜びなのです。とても長い年月、あらゆる苦しみが押し寄せてきましたから、私ははっきりとそう言うことができます!

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ70・8/天使館第1巻P627

 

イエズスは言われる。

 

「わたしのヨハネともう一人の弟子の間には、もう一つの対比があります。この対比はわたしの愛弟子の人柄をますます澄明にします。

 彼は『弟子』であるために、その考え方、判断の仕方までも捨てるような人です。我意がなく―自分自身を二の次にして―余すところなく自己贈与する人です。ユダは自分自身を捨てない人です。だから彼のは実在しない贈与です。そこには彼の自我、傲慢と官能と貪欲という病が巣くっています。彼は自分の考え方に拘(こだわ)ります。そういうわけで、贈与と恩寵の効果を相殺します。

 ユダは、不成功に終わったすべての使徒の元祖です。その数は厖大です! ヨハネは、わたしへの愛のために、自らをホスチアにする人の元祖です。あなたの元祖です。

 

わたしは、至高のホスチアです。そこに到達するのは難しいというよりも不可能です。わたしたちの生贄は、完全に苛烈を極めたものでしたから。しかしわたしのヨハネは! 彼なら、わたしの熱愛者たち、すなわち処女たち、童貞たち、殉教者たち、証聖者たち、福音宣教者たち、活動する、あるいは観想するのしもべとのしもべたちも模倣できるホスチアであり、皆のための一つの模範です。愛する人です。

 

 異なる物の考え方に注目してください。ユダは探り、詮索し、屁理屈をこね、人の揚げ足を取り、自分を責め、たとえ譲歩はしても、実際は自分の考えに拘ります。ヨハネは自分を無だと見なし、すべてを受け、理由を尋ねず、わたしを喜ばせて満足しています。これこそ鑑です。

 

 彼の単純さと情愛の深さを見て、あなたは大いなる安らぎを感じませんでしたか? おお! わたしのヨハネ! それからわたしの小さなヨハネよ。あなたがわたしの愛弟子にますます似てほしいと思います。この使徒のように、いつも『先生あなたのなさることはすべてよく、うまくいきます』と言って、すべてを受け入れてほしい。『あなたはわたしの愛のやすらぎだ』と、いつもわたしに言われる人になるために。マリアよ、わたしだって慰みを必要とするのです。それをわたしにください。あなたの休息のためにはわたしのを」。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ17・15/天使館P144

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

マリア、わたしたちは常に、人びとが神に向かって登る階段になることができなければなりません。人びとに踏まれても少しも構わないのです。ただ彼らが十字架に向かって行くことができさえすれば。十字架は、善と悪の知識の果実が実る新しい木です。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P84

‘87・3・1

 

今日は、一日に何回かイエスがおっしゃいました。(そばに主がおられると識別できた折りに)、「書くのが嫌にならないように、たゆまず書きなさい」と。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P104

 

覚えておきなさい、私は今でも苦しんでいる。 ヴァッスーラ なんと辛く苦々しいか、どうして、どうして私の羊たちがこんなに多く散ってしまったのか。 彼らを見なさい、私の十字架は無駄だったか。娘よ、私は、なんとがっかりしていることか、私の霊魂はなんと徹底的に打ちのめされてしまったであろう、私は苦しむ。 私の羊たちを養いなさい。 書くことに疲れてしまわないように。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P322

‘87・9・7

 

怖れないように、あなたとともにいます、我が子イエスはあなたがくれるようにと頼んでいた証拠や印をはっきりと制限なさいました ♡ けれど我が子にはその理由があるのです ♡ イエスはそれでもあなたに信じる恵みを与え、知恵をもって指示されてきました、ヴァッスーラ、あなたは本当に見えないまま信じたのです。

 

そうでしょうか?

 

♡ そうしましたよ、そうでなければ私どものもとに来て書くという、この熱意を持たなかったでしょう、主の望まれるままに 自分を使ってもいただかなかったでしょう。

このようにしたことは 愛する者よ、あなたが盲目的に信じたことを証しています そして神はそれを喜んでおられるのです、あなたの信仰は偉大ですよ ♡ イエスはそれによって ほかの人たちにも主の神聖な御わざにたいして信仰を持って見えないまま信ずるようにと望んでおられるのです、純朴でいらっしゃい、神の悦ばれる子どもたちらしくなさい

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P260

‘88・7・31

 

ジェームズ神父と私はイエスの指示に従い、汽車でローマに向かいました。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P260

‘88・8・1ローマ

 

私たちは聖ペトロ寺院まで歩いて行きましたが、その途中ジェームズ神父は塀に「司祭のマリア運動」のポスターが掛けてあるのに気づきました、彼はそのほうに行って立ち止り、私はその瞬間香の薫りがしました。彼をそこで呼んだのですが、彼にはその薫りが分かりません。たった一か所だけの薫りだったのです。

イエス?

私です、ヴァッスーラ、それは私の香りだった ♡ 勇気を出しなさい 我が子よ(*) たどっているどの一歩も無駄にはならない、私がこの仕事を任命した、恐れないように 私が前にいて、あなたは私ども(**)に護られている、あなたの時代のこの戦いにあなたを遣わし 悪魔のわざによる全てをもとに戻す正しい人びとの仲間となる使命を 与えた ♡ あなたの行うすべてを祝福する ♡

* ジェームズ神父にたいして

 **イエスと聖マリア

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P74

‘88・11・16

 

このようにしてサタンはあなたに指を触れることが許されていない(*)、あなたにこう約束する ♡ 私のほうからは、決して見捨てたり、なおざりにはしない、何一つ不足しないであろう。 あなたに平安を与え 小さな霊魂にたいして特別に抱く愛を示した、我が聖心を しめした。 そこで 我がヴァッスーラ、あなたは私を測り知れないほどに愛し 我が霊を悦ばせるようにと造られている、私を常に望み、従うことによって喜ばせなさい、我が怒りを和らげ、慰め 憩わせてほしい、私を礼拝し、私のうちに希望し、完全に盲目的に信じなさい、これらが我が心の指針。 私を尊び、我が反射となるように。 そして与える全てを受け取り 我が誉れとなりなさい。 花よ、私の利益と栄光のためにだけ生きるように、与えるすべてを いつも喜んで受け入れなさい。

 

  病いや死をもたらし。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P8

 

私を そして無償で与えたものをしっかりとつかんでいなさい。 倦まずに書きつづけるように。 共にいる。 ic

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P192

‘01・11・13

 

だが、まことに言っておく、私を進んで受け入れた者は誰であろうと、私が話している今も、祝福されている、あまりに不思議な仕方で、知識と知恵を私より受けているゆえ、それはまるで聖書を全部読んでしまったかのよう! その人自身 恵みを通して得られる聖なる霊感を自らのうちに携え 声高に話す書物となる。 こうして、我が娘よ、その人は聖書を読むとき、その字づらだけではなく、むしろ、ヴァッスーラ、あなたも経験したように、霊的な目で 内容の深い意味が見えてくる ♡

 

そこで、預言的任務を持ち、声高に話す書物のような我が使者たちには 反対しないように、私がこの者たちを遣わした。 聖書に含まれる以上のものは啓示しないが、あなた方にとっては 道案内。 私のうちなる真のいのちを生きるよう 新しい生き方を手引きする ♡ 人生をよりよくし 希望と慰めを与えて。私は誰であっても 悲惨な存在からカテドラルへと変えられる。

 

裁いてはならない そうするなら私が訪れて 我が言葉を実現しよう。 聖書は、あなたの神なる、私の肖り、だから見くびってはならない そして私を知るに遠く及ばないあなたが 聖書を知っているとは言わないように。私のヴィジョンが見えるように掟を守り、そこに述べたことを果しなさい。 我が言葉を行う霊魂は 私を知るようになろう。 そのとき、そしてそのとき初めて、あなたは決まりによってではなく 私に与って神となる。

 

 

 

 

4.十字架のヨハネ

 

 

ドン・ボスコ社/十字架のヨハネ小品集P199

 

すべての霊魂の、その身分、その階級における最高の完徳は、自分の才能と能力に応じて神の模倣に進歩し成長することである。そして、最も驚くべき、最も神的な事とは、人々を改心させ、征服するために神の協力者となることである。なぜならば、神のみ栄えはこれにおいて輝くのであり、神にならうことは最大の光栄であるから。そのために、われらの主キリストは、それらを、おん父の事業、おん父のこととよばれた。霊魂が愛によって神に堅く一致すればするほど、隣人に対する同情が大きくなるのは明白な事実である。なぜならば、愛すれば愛するほど、われわれは、この神がすべての人から愛され崇められることを望み、そして、それを望めば望むほど、念祷および、その他、すべて可能で必要なあらゆる手段によってそのために働くから。

 そして、このように神に占有された霊魂のうちにおいては、愛徳の熱烈さと力はきわめて強いので、かれらは自分ひとりの利益だけに満足し、それだけに制限されていることはできない。むしろ、自分一人で天国に行くのはあまりにも小さなことと思われて、自分といっしょに、たくさんの霊魂を天国に連れて行こうと焦慮しながら、天的な愛と、この上もない勤勉をもって努めるのである。これはかれらが神に対していだいている大きな愛から生じるのであり、念祷と完全な観想の実、かつ、その効果である。

 

 

 

 

5.仁慈の中にいる者たちは自らを卑しうし、最低の者であるとして、凡ての者に仕えようと願っている

 

 

天界の秘義8313〔4〕

 

なぜなら善は真理を切望して、真理を進んで受けるからである、それは真理は(善と)同質のものであるからである。しかし生命の悪の中にいる者らはそれを変化させはしないで―それは謂わば固いものとなっているが―真理を斥けさえもし、また明確でない状態の中にいるため、真理を見ることさえも出来ないのである、彼らは彼ら自身の原理を確認させるようなもののみを認めて、それに反したものを些かも認めはしないのである。こうした者はまた自分は凡ての者の中でも最も理知的なものであると信じているが、しかし彼らはその信奉している原理から、いかようにして論じるか、ということを除いては何ごとも知ってはいないのである、それで仁慈を最も攻撃し、従って主権を得ようとする者はこうした者である。なぜなら仁慈の中にいる者たちは自らを卑しうし、最低の者であるとして、凡ての者に仕えようと願っているのに反し、仁慈の無い信仰の中にいる者らは尊大であって、自らが最高の者であるとして、凡ての者から仕えられようと欲しており、それで彼らは天界を主権を得る栄光から成立させており、自分自身は他の凡ての者にも優って理知的なものであると信じているため、自分は首天使にもなり、かくて他の多くの者は自分に仕えるであろうと考え、またダニエル書の言葉に従って、『理知ある者は大空の輝くようにも輝き、多くの者を義に向ける者は、永久に、永遠に、星のように輝くであろう』(ダニエル12・3)と考えているのである。しかしこうした者は輝きの代りに暗黒を得るのである。

 

 

 

 

6.それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体

 

 

啓示による黙示録解説6

 

黙示録1・2「彼(ヨハネ)は神の聖言とイエス・キリストの証を証しした。」

 

 ヨハネにより仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たち凡てが意味されているため、それで霊的意義ではこれら凡ての者が意味されている。聖言の霊的意義の中にいる天使たちは、聖言に記されている人物の名は全く知っておらず、ただその人物が表象し、そこから意味しているところのもののみしか知っていないのであり、それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体である。これらの者が「証する」のである。即ち、聖言の諸真理を、特に主の人間的なものは神的なものであるというその聖言の真理を見、承認し、心から光の中に受け入れ、告白するのである。