1.教会

2.外なる人

3.人間自身のもの

4.植物は雄性のみであって、地は共通の母

5.地では排泄物により土地が肥沃になることが生み出される

6.『海』は自然的な真理を、『地』は自然的な善を意味

 

 

 

 

 

1.教会

 

 

主イエス・キリスト65

 

黙示録には新しい天と新しい地という語が記され、後に見よ、わたしは凡ての物を新しくするという語が記されているが、それは今や主により新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何事も意味していない。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡3

 

「新しい地」により地上の新しい教会が意味されていることは、現在まで知られていない。というのは、凡ての者は聖言の「地」により地を理解したからであるが、事実は、それにより教会が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義1066

 

 「これらの者から全地にひろがった」。これはそれらから真のまた偽りの凡ゆる教義が由来したことを意味していることは『地』の意義から明白である。聖言では『地[大地]』または『地』は種々の意義に用いられている。普遍的な意義ではそれはカナンの地、ユダの地、イスラエルの地のように、教会が存在している、または存在していた場所または地域を意味している。かくて私たちが普通の言葉の中で知っているように、それは地がその地の中にいる人間について述べられているため、教会に属した者を普遍的に意味している。それで古代では人々が『全地』について語った時は、全地球を意味しないで、単に教会が存在した地のみを意味し、引いては教会そのものを意味したのであり、このことは聖言の以下の記事から明白である。イザヤ書には―

 

 見よ、エホバは地を空しくされる、地はまったく空しくなるであろう、地は嘆き、狼狽するであろう、地はまたその住民の下に汚されるであろう。そのため呪いは地を食いつくすであろう、それで地の住民はやかれ、人間は弱いままにすておかれるであろう。瀑布は高いところから開かれ、地の基は震える、地は全く砕かれる、地はことごとく解体された。地は甚だしく動かされた、地はよろめいて、よいどれのようによろめき、小屋のようにあちらこちらと動かされるであろう、その咎はその上に重くかかり、それは倒れて再び起き上がらないであろう(24・1、3−6、18・20)。

 

 ここの『地』はその中にいる人々を意味しており、事実教会の人々を、引いては教会そのものを意味し、また教会の荒廃した事柄を意味しており、それについて、それが荒廃すると[剥奪されると]それは『空しくなった』『甚だしく動いた』、『酔いどれのようによろめく』『あちらこちらと動く』『倒れて再び起き上がらない』と言われている。

 

 

 

天界の秘義1066[5]

 

聖言では『地』または『大地[地]』は教会を意味しているため、それはまた教会でないものを意味している。なぜならこのような言葉はことごとく相反した、または対立して意義を持っているからである。例えば異邦人のいろいろの地のようなものにはその意義があり、全般的にカナンの地の凡ゆる地にその意義があるのである。それで『地』はまた教会の外にいる民と人として考えられ、かくて外なる人として、その意志として、その人間自身のもの、その他のものとして考えられている。この言葉は全人類がその状態の方面で―それが教会の状態であるにしても、その状態の方面で―意味されている時を除いては、聖言では全世界の意味にはめったに用いられてはいないのである。そして大地[地]は土地を含んでいるものであり、土地もまた教会を意味し、また土地は畠を含んでいるため、『大地[地]』という言葉は、多くの事柄を含んでいるため、多くの事柄を意味しており、その意味していることは、取扱われている主題から―それはそれについてその言葉が述べられているものであるが、その主題から―明白になっているのである。この凡てからノアの息子たちがその上一面に広がった『全地』により全世界が、または全人類が意味されているのではなく、教会に属した真の、また誤った教義がことごとく意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義1262

 

これまでに言ったことから今や『地』によりここでは教会が意味されていることを認めることができよう、なぜなら『地(大地)』または『地』が言われているときは、そこにいる国民または民が認識されないわけにはいかないのであって、国民または民が認識されるときは、かれらの性質も認識されるにちがいないからである。ここから『地』により、前に示されたように(662、1066番)、教会以外には何ごとも意味されていないのである。

 

 

天界の秘義3368[2]

 

 なぜなら『地』の意義は多様であって(620、636、1066番)、それが国民について述べられているさい、その国民の性質を意味しているからである(1262番)。しかしその本来の意義では『地』は教会を意味しており(3355番)、それは教会を意味しているため、また教会に属している事柄を意味しており、従って仁慈と信仰との教義的な事柄を意味しており、かくてまた神的なものにより明るくされるとき真理の外観となるところの合理的な事柄を意味している、なぜならこれらの外観は教会の真理であり、かくて教会の教義的な事柄であることは前に見られることができるからである(3364、3365番)。

 

 

 

 

2.外なる人

 

 

天界の秘義25

 

『地をひろげ、天を張る』ことは予言者が人間の再生をとり扱う際に用いる共通の形式の言葉である。例えばイザヤ書には―

 

 あなたの贖い主エホバ、胎内からあなたを形作られた者はこのように語られる。わたしは凡ての物を作り、ただひとりで諸天を張り、わたし自身により地を拡げるエホバである(イザヤ44・24)。

 

 

 

天界の秘義913

 

「それらが地にひろがり。」これは外なる人に内なる人が働きかけることを意味し、『子を生むこと』は善が増大することを、『ふえること』は真理が増大することを、『地に』は、外なる人の中に、を意味することは事柄の関連から明白であり、また『果をむすぶこと』について言われもし、示されたことから明白であり―それは聖言では善について述べられている―また『ふえること』の意義について言われもし、示されたことからも明白である―『ふえること』は真理について述べられている。『地』は外なる人を意味することも同様に前に示しておいたため、わたしたちはこれらの意義を確認するためにそれらをさらに長く詳述する必要はない。ここでは人間が再生した後で内なる人が外なる人に働きかけることが主題となっていて、外なる人が相応するように、または服従するようになったとき善が始めて果を結び、真理が増大することが示されているのである。このことは(人間が再生する)以前には決してありえないのは形体的なものは善いものに対立し、感覚的なものは真のものに対立し、前のものは善の愛を、後のものは真理の愛を消滅させるためである。善が実を結び、真理が増大することは外なる人の中に起ることであり、すなわち善が実を結ぶのはかれの情愛の中に、真理が増大するのはかれの記憶の中に起るのである。外なる人はここでは『地』と呼ばれており、その上一面にそれらはひろがり、またその上に実を結んで、増大するのである。

 

 

 

天界の秘義984

 

 『地に再び満ちる』ことは外なる人の中に、を意味していることは『地』の意義が外なる人であることから明白であって、その意義についてはすでに幾度も示しておいた。再生した人間の仁慈の諸善と信仰の諸真理とについてはそれらは良心の中に植えつけられるのであり、そしてそれらは信仰により、または聖言を聞くことにより植えつけられるため、それらは外なる人に属した記憶の中に最初存在していると言ってよいであろう。その人間が再生して、内なる人が活動する時、それと同じことが実を結ぶこととふえますことについても起り、すなわち、仁慈の諸善は外なる人の諸情愛の中にそれ自身を現わし、信仰の諸真理はその外なる人の記憶の中にそれ自身を現わし、その何れの場合も増大し、ふえますのである。このふえますことの性質は再生した人物の各々に知られることができよう、なぜなら確認させる事柄が絶えず聖言から、合理的な人から、知識から生まれて、そのことによりかれは益々確認することができるのであって、これは仁慈の結果であり、主のみが仁慈を通してその業を行われるからである。

 

 

 

 

3.人間自身のもの

 

天界の秘義1044

 

「そしてそれはわたしと地との間の契約の印となるであろう」。これは主が現存されているしるしを意味し、ここの地は人間の人間自身のものを意味していることはすでに言われたことから明白である。『地』は人間の人間自身のものを意味していることはまた内意から明白であり、それがここに用いられている関連からも明白である。なぜなら前には以下のように言われたからである。『これはわたしがわたしとあなたとあなたとともにいる生きた凡ての魂との間に立てる契約の印である』。このことにより何であれ再生したものがことごとく意味されたのである。しかしここでは異なった風に言われている。すなわち、『それはわたしと地との間の契約の印となるであろう』。このことから、また『契約の印』という言葉が繰り返されていることからも、ここには他の事柄が意味されており、事実『地』は人間の意志の部分の人間自身のものであるところの、再生しない、また再生することの出来ないものを意味していることが明らかである。

 

 

 

天界の秘義1044[2]

 

なぜなら人間は再生した時はその知的な部分の方面では主のものであるが、しかしその意志の部分の方面では人間自身のものであって、霊的な人間の中ではこの二つの部分は対立しているからである。しかし人間の意志の部分は対立しているけれど、それでもそれは現存しないわけにはいかないのである。なぜなら彼の理知的な部分における曖昧さはことごとく、または彼の雲の濃厚さのことごとくはそこから発しているからである。それは絶えずそこから流れ入っており、そしてそれが流れ入って来るに応じて、彼の知的な部分の中の雲は厚くなるが、しかしそれが遠ざけられるに応じて、その雲は稀薄になるのである。かくて『地』によりここでは人間の人間自身のものが意味されている。(『地』により人間の形体的な部分が意味されまた他の多くの事柄も意味されていることは前に示しておいた。)

 

 

 

天界の秘義1044[3]

 

意志と理解の間のこうした事柄の条件は最古代教会の人間における意志と理解のように、前には友情の契約により結合していた二人の者が―人間がその意志の部分を全く腐敗させてしまった時起ったように―その友情を破壊されてしまって敵意が起ってきたようなものであり、かくて契約が再び結ばれるとき、敵意を抱いた部分が契約がそれと結ばれるかのように差し出されるが、しかしそれは全く対立して、相反したものであるため、契約はそれとは結ばれないで―既に言ったように―そこから流れ入って来るものと結ばれるようなものであり、すなわち理解の人間自身のものと結ばれるのである。契約の『象徴』または『印』は以下のようなものである。すなわち、理解の人間自身のものの中に主が現存されるに比例して意志の人間自身のものが遠ざけられるのである。この間の実情は天界と地獄との実情に性格に同一である。再生した人間の知的な部分は、主がその中に現存されている仁慈から、天界であり、彼の意志の部分は地獄である。主がこの天界の中に現存されているに応じ、それに比例してこの地獄は遠ざけられるのである。なぜなら人間は人間自身では地獄の中におり、主により、天界の中にいるからである。そして人間は絶えず地獄から天界へ挙げられつつあり、彼が挙げられるに応じて、それに正比例して彼の地獄は遠ざけられるのである。それゆえ主が現存されているという『印』は、またはそのことを指示するものは、人間の意志の部分が遠ざけられるということである。それが遠ざけられる可能性は試練により、また他の多くの再生の方法により行われるのである。

 

 

 

 

4.植物は雄性のみであって、地は共通の母

 

 

真の基督教585

 

 植物の繁茂と、人間の生殖との間に相応があることは、多くの学者達によって指摘されている。それ故、私はこの主題に関し若干の事柄を附加しよう。木と植物界の凡ゆる物の中には単に一つの性即ち雄性があるのみであり、地はその共通の母であって云わば雌性である。何故ならそれは凡ゆる植物の種子を受け、これを開き、謂わばこれを胎内に運び、次いでこれを育て、日の光の中へ携え出し、後、これに着せ、これを支えるからである。地は始めて種子を開くと、それは心臓に似た根から液汁を血液のように送り、かくして手足に飾られた一種の身体を形成する。幹はその身体であり、小枝をつけた枝はその手足である。それが生れ出ると直ぐ現れてくる葉は肺臓に当っている。何故なら、心臓は肺臓無しには人間の中に知覚も、運動も、生命も維持しないように、根も葉もなくしては木を成長させることは出来ないからである。果実に先立つ花は液汁をその粗悪な部分から純粋な部分を分離することによって浄化する手段であり、また新しい柔らかい茎を形作り、その茎を通って浄化された液汁は流れ、徐々に果実を産み出し(その果実は睾丸に譬え得よう)その果実の中に新しい種子が形成される。液汁の各分子を生かすところの生成の霊魂或は結実の本質は、霊界の熱から由来し、この熱は霊的な太陽から発し、生成を助長し、かくて、創造の継続に資する。而して、霊的な太陽は第一次的には人間を生成する傾向を持つ故、生み出される物の凡ての上に人間に類似したものを生ぜしめるのである。

 植物は雄性のみであって、地は共通の母であることを疑う者は蜂を研究しなくてはならぬ。蜂はスワンメルダムの「自然の聖書」に依れば、単に一人の共通の母を持つに過ぎず、その母から全ての蜂が生み出されるのである。若しこの小さな動物達が一人の共通の母のみしか持たないならば、何故そのことが植物に言われないであろうか。地は教会に相応しており、(『黙示録の啓示』285、902番)それが聖言に教会も共通の母と呼ばれている理由である。地は種子の結実の本質に浸透し、これを拡げる力を持っている。それはこの小さな分子は凡て、浸透する力を持つ微妙な物を発散するからであり、この力を霊界の熱から受けているからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P185

 

「きょうは“姦通をするな”について話します。この姦通者とはだれであるか、自分の周りに探ってはならない。お互いに愛を持ちなさい。他人があなたの顔に淫乱を読んだとしたらどうしますか。それなら隣りの人の困惑している目、赤面して目を伏せるその顔を読もうとしてはならない。

 それから・・・特におまえたち男に言うが、おまえたちの中で、かつて灰とくずのパンを一度もかじっていない人がいますか。淫蕩とは淫売婦の腕を一時間枕にすることだけを指すのではなく、妻との絆を汚して、単なる性の快楽を求めるもの、避妊もそうです。婚姻は出産を意味し、性交は受胎を意味します。これがなければ行為は不道徳なものとなり、床は淫行の場となります。結婚が出産によって聖別されなければ、淫乱で汚されるだけです。大地は種子を拒まず、迎えて木にします。種子は蒔かれて後は土から逃げることがなく、やがて根を出して成長し、土くれと種子との絆によって植物が誕生するのです。男は種子で、女は大地、穂は子供です。穂を作るのを拒むならば、性は罪に変わり、夫婦の寝室で営まれる淫行にすぎず“一体となって子供を増やせ”という神の掟に背くことになります。

 自分から避妊している女たちよ。社会では法律上の妻であっても、神の目にはそうではない。夫だけのものであっても、淫売婦と同じです。往々にして母性よりも快楽のみ追い求めているからで、その快楽とは麻薬のようで、足ることを知らず、家庭の外にもその満足を求め、結局は自分自身と快楽を分かち合う仲間とに嘔吐をもよおし、自分自身を軽蔑するだけです。

 “淫行をするな”と言われているが、肉体の多くの行為は淫行にすぎません。レビの書が、次のことばで弾劾する悪夢のような交際に、私は触れたくもない。

“おまえは、女と寝るようにして男と寝てはならぬ。それは忌まわしい限りだ。おまえは動物と寝床の交わりをしてはならぬ。これをすれば、おまえは身を汚したものとなる。また女も動物を引き寄せて、それと交わってはならぬ。それは忌まわしい行為である”(訳注レビ記18・22−23)

 

 

 

 

5.地では排泄物により土地が肥沃になることが生み出される

 

 

「排泄物により霊的な事柄において表象されているものについて」

霊界日記2660

 

 排泄物は霊的な、汚れた、嫌悪すべきものである。地では排泄物により土地が肥沃になることが生み出されるからには、そこから、汚れた幾多の罪を告白し、自らが糞のようなものであることを告白する者たちの中には、こうした地の中には種子が成長することが表象されるのである。他生でも同じく、姦淫と残酷との楽しいものといったものが腐敗して、悪臭を発する糞のようなものとなり、かくて彼らがそうしたものを忌み嫌い初めると、その時はこれらの霊は、謂わば、その中に善の能力が植え付けられることが出来る土壌となるのである。

 

 

 

 

6.『海』は自然的な真理を、『地』は自然的な善を意味

 

 

天界の秘義2162[7]

 

 

『足』は自然的なものを意味していることは、今以下に記す記事からさらに明白となるであろう。ヨハネの書には―

 私は一人の天使が雲に包まれて、天から降って来るのを見た、虹がその頭のまわりにかかり、顔は陽のようであり、足は火の柱のようであった、彼は手に開かれた小さな書物を持っていた、彼は海にその右足を、地にその左足を置いた(黙示録10・1、2)。

 

 この天使により同じように聖言が意味されており、内意におけるその聖言の性質は、『その頭のまわりの虹』により、また『顔が陽のようであったこと』により意味されているが、しかし外なる意義は、または文字の意義は『足』により意味されているのである。『海』は自然的な真理を、『地』は自然的な善を意味していて、そのことが彼が『その右足を海に、左足を地に』置くことにより意味されていることを示している。