天体

 

1.引力

2.小宇宙

3.天界はどこにあるか

4.天界の完全さはそれを構成する者の数に従って増大する

5.人類は決して絶えない

 

 

 

1.引力

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P155

 

神は愛の本源である。世界を宇宙空間に保ち続けている引力は、いわば、愛であり神に源を発する霊的引力の物的表現である。

 

 

2.小宇宙

 

最後の審判とバビロンの滅亡8

 

かくて人間は神的秩序の形とされたのである。

 

 

天界の秘義9278

 

 人間の内部は天界の映像に従って創造され、その外部は世の映像に従って創造されており、かくて人間は小さな形の天界と世であり、古代人の金言に従うと、小宇宙であることは、前に見ることができよう(6057番)従って主が天界を通して人間の中の世を左右されることが神の秩序に従っており、決してその逆は行われてはならないのである。

 

 

 

3.天界はどこにあるか

 

最後の審判とバビロンの滅亡8

 

この創造の秩序から以下のことが明らかとなるであろう、すなわち、最初のものから最後のものまで凡てを関連づけ、結びつけている鎖はこのようになっているので、凡ての物は合して一つのものとなり、その中では(ちょうど原因はその結果から分離されることができないように)先在的なものは後在的なものから分離されることはできず、かくて霊界は自然界から分離されることはできず、また自然界も霊界から分離されることはできず、かくて天使的天界も人類から分離されることはできず、人類も天使的天界から分離されることはできない。

 

それ故、各々が他のものに互いに助けを与えるように、すなわち、天使的天界は人類に、人類は天使的天界に助けを与えるように主により定められている。ここから、天使の住居は実に天界に在って、外観的には人間の居る住居から分離してはいるが、しかも人間とともにその善と真理との諸情愛の中に在ることが生まれている。

 

彼らが分離しているように目に映ずるのは外観から起こっている。このことは「天界と地獄」の著作の中で、天界の空間を取り扱っている項目に見ることができよう(191−199)。天使たちの住居は人間のもとに、その善と真理との諸情愛の中に在ることは、主の以下の語により意味されている。

 

わたしを愛し、わたしの言葉を守る者をわたしの父は愛し、わたしたちはその者のもとに来て、その者とともに住むであろう(ヨハネ14・23)。

 

この記事の「父」と「主」によりまた天界が意味されている。なぜなら「天界と地獄」を取り扱った著作(7−12、116−125)に見ることができるように、主から発する神的なものが天界を作る故、主のおられるところに、天界が在るからである。

(中略)

 

神の国はあなたがたの中にある(ルカ7・21)。

 

「神の国」は天使たちがその中にいる神的な善と真理である。

 

最後の審判とバビロンの滅亡9

同じように、人間は自然界から霊界へ移ると―それはかれが死ぬと起こるが―かれは霊であるゆえ、もはやかれ自身の基底の上に存続しないで、人類という共通の基底の上に存続する。天界の秘義(アルカナ)を知らない者は、天使たちは人間がいなくても、また人間は天使がいなくても存続すると信じるかもしれないが、しかし私は、天使または霊は一人として人間がいなくては存続しないし、また人間も一人として霊と天使がいなくては存続しないし、両者は相互的にまた交互的に連結していることを、天界にかかわる私のすべての経験と天使たちとの私のすべての談話から主張することができる。このことから、人類と天使たちの天界とは一つのものとなっていて、相互的にまた交互的に互いに他によって存続し、かくして前者は後者から取り去られることができないことが今や認められ得るであろう。

 

 

4.天界の完全さはそれを構成する者の数に従って増大する

 

最後の審判とバビロンの滅亡12

 

 

5.人類は決して絶えない

 

最後の審判とバビロンの滅亡6

 

最後の審判とバビロンの滅亡7

人類の出生は永遠に継続することは多くの考察により―その中若干のものは「天界」にかかわる著作に示されているが―特に以下の考察により明らかである。

[1]人類は天界を築く基礎である。

[2]人類は天界の苗床(セミナリ)である。

[3]天使たちのために存在する天界の拡がりは永遠に満たされることはできないほどに無辺である。

[4]現在の諸天界を形成している者たちはそれぞれ非常に少数である。

[5]天界の完全さはその構成員に従って増大する。

[6]神的な業はすべて無限と永遠とを目標としている。

 

最後の審判とバビロンの滅亡13

ここからもまた人類は決して絶えないことが明らかである。なぜならもしそれが絶えるならば、その神的な業は或る数に制限され、かくてそれは永遠を目指さなくなるからである。