天幕

 

 

天界の秘義414

 

 シオンの娘の天幕に主はその憤りを火のように注がれた(哀歌24)。

 

これは信仰の天的な、または聖いものの荒廃を語っている。

 

[3]天幕という言葉が愛の天的な聖いものを表象するために聖言に用いられている理由は古代かれらはその天幕の中でその礼拝の聖い儀式を行ったということである。しかしかれらが汚れた種類の礼拝により天幕を汚し始めた時、幕屋が建てられ、その後神殿が建てられたのであり、それゆえ天幕は先ず幕屋により、その後神殿により後に意味されたものを凡て表象したのである。同じ理由から聖い人間は『天幕』『幕屋』『主の神殿』と呼ばれている。『天幕』『幕屋』『神殿』は同じ意義をもっていることはダビデの書に明らかである―

 

わたしは一つのことをエホバに求めました、わたしはそれを求めましょう、わたしはわたしの生命の日すべてエホバの家の中に止まって、エホバの美わしさをながめ、その神殿を時早く訪れることを求めましょう、エホバは悪い日にはわたしをその幕屋の中に隠し、その天幕の秘かな辺りにわたしをかくし、わたしを岩の上に置かれるからである。今わたしの頭はわたしをとりまいているわたしの敵にむかって高く挙げられるであろう、わたしはエホバの天幕の中に大声で叫ぶ生けにえを捧げましょう(詩篇27・4,5,6)。

 

 

[4] 最高の意義では、主の人間的な本質が『天幕』『幕屋』『神殿』であって、そこから天的な人間はことごとくそのように呼ばれており、天的な聖いものもまたそのように呼ばれたのである。さて、最古代教会はそれ以後の諸教会よりも主から愛されたため、そしてかの時代の人々は独りで、すなわち、かれら自身の氏族とともに生活し、その天幕の中で極めて聖い礼拝を捧げていたため、天幕は冒涜された神殿よりも聖いものと考えられたのである。これを記念して幕屋の祭が定められて、そのときかれらは地の産物をとり集め、またその間は、最古代の人々のように、天幕に住んだのである(レビ記23・39−44、申命記16・13、ホゼヤ書12・9)。

 

 

天界の秘義1102

 

「かれはセムの天幕の中に住むであろう」(創世記9・27)。

 

これは、礼拝の内なるものが外なるものの中に存在するように、を意味することは前に『セム』について述べられた凡てのことから明白であり、すなわち、『セム』は内なる教会、又は内なる礼拝であり、外なる礼拝は、それを生かし、潔める内なる礼拝がない限り、生命のないもの、または不潔なもの以外の何物でもないことから明白である。『天幕』は愛の聖いものとそこから生まれてくる礼拝以外の何ごとも意味していないことは『天幕』の意義から明白である(そのことについては、前の414番を参照)。

 

古代人の間では『天幕の中で旅をすること』と『天幕の中に住むこと』を話すことが慣とされ、そのことにより、その内意では聖い礼拝が意味されたのであるが、それは最古代人は天幕を携えて旅をしたのみでなく、またその中に住み、その中で聖い礼拝を捧げたという理由によっていたのである。ここからまた『旅をする』ことと『住む』とは内意では生きることを意味したのである。

 

[2]『天幕』が聖い礼拝を意味していることを確認するためには―前に引用した記事に加えて(414番)―以下の記事が役立つであろう。ダビデの諸には―

 

神はシロアの幕屋を、天幕を―その中で神は人間の中に住まわれたが―見棄てられた(詩篇78・60)。

 

ここでは『天幕』は『神殿』が意味していることと同じことを意味しており、神は愛の中に人間のもとに住まわれるときその神殿の中に住まわれると言われているのである。ここから聖い礼拝の中に生きた人間は古代人により『天幕』と呼ばれ、後には『神殿』と呼ばれたのである。イザヤ書には―

 

あなたの天幕の場所を大きくせよ、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ(54・2)。

 

これは真の礼拝に属した事柄を明るくされることを意味している。エレミヤ記には―

 

全地は荒らされ、たちまちわたしの天幕は荒らされ、わたしの帳はまたたくまに荒らされてしまった(4・20)。

 

ここには天幕が意味されていないで、聖い礼拝が意味されていることが極めて明らかである。ゼカリヤ書には―

 

エルサレムは尚再びそのもの自身の場所に、エルサレムの中にさえ住むであろう、エホバも亦ユダの天幕を救われるであろう(12・6,7)。

 

ここでは『ユダの天幕』は愛の聖いものから主を拝することを表象している。

 

 

天界の秘義3417

 

「ゲラルの谷間に天幕をはり、そこに住んだ」(創世記26・17)

主が低い合理的なものへおもむかれたことを、すなわち、内的な外観から外的な外観へおもむかれたことを意味。

真理が、生命の中には余りいないで信仰の教義的なものの中にいる者らに把握されるように、またそうした者の資質に適応されるように主がその真理を処理されたことが意味されている。

 

「天幕をはる」秩序づける

「ゲラルの谷間」低い合理的なもの、また真理の外観

なぜなら「谷間」は低いものを意味し、またはそれと同一のものであるところの、外的なものを意味しており(1723)、「ゲラル」は信仰にぞくしている事柄を意味し、かくて真理にぞくしているものを意味しているからである。(1209,2504,3365,3384、3385)