自分自身を点検する

 

 

 

 

天界の秘義1680[2]

 

他生における霊たちはすべて以下のように区別されている、即ち、他の者に対して悪を欲している者らは奈落のまたは悪魔的な霊であるが、しかし他の者に善を欲している者たちは善良な、天使的な霊である。人間は自分がどちらの者の間にいるかを、奈落の者の間にいるか、または天使的な者の間にいるかを知ることが出来るのである、即ち、もし彼が隣人に悪を意図し、彼について悪のみしか考えず、また実際にそれを行うことが出来る時、それを行って、そのことに歓びを感じるならば、彼はその奈落の者の間にいるのであり、他生ではまた奈落の者となるが、それに反して隣人に善を意図し、隣人について善以外には何ごとも考えず、また実際にそれを行うことが出来るとき、それを行う人間は天使的な霊たちの間にいるのであり、他生ではまた天使となるのである。これが両者を区別する特質である。各自このことにより自分自身を点検して、自分はいかようなものであるかを知られよ。

 

 

 

天界の秘義7178

 

 たれ一人隣人に対する愛と神に対する愛との何であるかを知らない限り、霊的意義において理解されている善の何であるかを知ることは出来ないし、また自己への愛と世への愛との何であるかを知らない限り、悪の何であるかを知ることは出来ないのである。またたれ一人善の何であるかを知らない限り、また善にいない限り、信仰に属した真理の何であるかを内的な承認から知ることも出来ないし、また悪の何であるかを知らない限り、誤謬の何であるかを知ることも出来ないのである。従ってたれ一人その二つの愛から発している善の何であるかを、善から発している真理の何であるかを知らない限り、またその二つの愛から発している愛の何であるかを、悪から発した誤謬の何であるかを知らない限り、自分自身を点検することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義7181

 

 自分の中に天界が在るか、または地獄が在るか、を知ることに優って人間に必要なものはない、なぜなら人間は永遠にその何れかの中に生きなくてはならないからである。人間はこのことを知るためには、善の何であるかを、また悪の何であるかを知ることが必要である、なぜなら善は天界を作り、悪は地獄を作っており、仁慈の教義がその二つのものについて教えるからである。

 

 

 

天界の秘義7372

 

 テストとして、以上記したことから、たれが自己への愛の中にいるかが知られるのである。彼らが外なる形ではいかように現れているかは、見えを張っているか、それとも慎ましげに見えるかは問題ではない、なぜなら彼らはその内的な人において見えを張っているか、慎ましくしているか、その何れかであり、その内的な人は現今大半の人間によっては隠されており、外部は社会と隣人に対する愛を、かくて反対のものに対する愛を見せるように訓練されていて、それもまた自己のためであり、また世のためであるからである。

 

 

 

如何にして人間は悔改むべきであるか

 

真の基督教530 (太字は当方による)

 

それ故、問題は、如何にして人間は悔改むべきであるか、ということである。答えは実際に悔改めることである。即ち、自らを点検し、自らの罪を認識し、承認し、主に懇願し、新しい生活を始めることである。前項に示されたように、自己点検なくしては悔改めは有り得ない。然し、自己点検は罪の認識を意味し、認識はその承認を意味する。而して、この三つの義務の凡ては人間を導いてその罪を主の前に告白させ、助けを求めて祈らせ、かくして到達すべき目標である新しい生活を始めさせる。これが実際の悔改めである。年頃になった者は誰でもこれが行為の正しい経路である事を認めることが出来る。それは再生を意味する洗礼式に示される。何故なら、その挙式に名付け親たちはその幼児のために、彼は悪魔とその凡ての業とを斥けるであろうと約束するからである。それは、主の聖餐に示されている。即ち、その聖餐に先立って凡ての者たちは自らの罪を悔改め、神に心を向け、新しい生活を始めるように勧告されている。それは、凡ての基督教徒の手にしている十誡によってもまた示されている。何故なら、その中の教示は人間が諸悪から遠ざかることを命じているからである。これらの悪が悔改めによって取り去られない限り、彼は隣人を愛し、神が愛せよという命令に服従することは出来ない。然し、この二つの誡命に凡ゆる律法と預言者が、即ち聖言が、従って救いが懸かっている。人が如何なる時にか―恐らく聖餐の備えをなしている間に―その気付いた一つ以上の罪から遠ざかるならば、彼は真実の悔改めの道に向って確乎たる出発を為したのであり、その時彼は天界への途上に在るのである。何故なら、その時自然的なものから霊的なものに成り、主によって新しく生まれ始めるからである。