多様性

 

 

 

天界の秘義4149[2]

 

 このアルカナについては実情は以下のようである、霊的な善には各々その善自身の諸真理が存在している、なぜならこの善が在る所には、その善の諸真理も在るからである。善はそれ自身において観察されるなら一つのものであるが、しかしそれは諸真理により多様なものとなっている、なぜなら諸真理は身体の器官の一つを構成している繊維いたとえることができ、その繊維の形に順応してその器官が生まれ、従ってその器官の働きが生まれ、その働きは霊魂を通して流れ入ってくる生命により行われ、この生命は主から発している善から発しているからである。かくて善は、一つのものではあるけれど、それでも個人各々のもとでは多様なものとなっており、凡ゆる点で人各々のもとでは決して類似してはいないほどにも多様なものとなっている。ここからまた一人の者の真理は決して他の者の善の中には存続することはできないのである、なぜなら善の中にいる各々の者における諸真理はすべて互に交流していて、何らかの形を生み出しており、それで一人の者の真理は他の者の中へ移されることはできないのであり、それが移されるときは、それはそれを受ける者の形の中へ入って、他の相を着けるからである。しかしこのアルカナは僅かな言葉で説明するには余りにも深い、このことから一人の者の心は決して他の者の心に全く似てはいないのであり、人間の数が大きいように、情愛と思考との方面の変化も大きく、また天界全体も不断の多様性をもった天使の形から成っており、その形は主により天界の形に処理されて、一つのものとして活動し、一つのものを生み出していることが生まれているのである。なぜなら一つのものは決して同一のものから構成されはしないで、多様な形をもった物から構成され、その物がその形に従って、一つのものを作っているからである。この凡てからかれの(ラバンの)真理はかれの(ヤコブの)善の中に存続していないことにより意味されていることが今や明白である。