楯
1.聖書
2.悪と誤謬とに対する、信頼される庇護
エフェソ6・11−17
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
天界の秘義1788
『楯』は悪と誤謬とに対する、信頼される庇護を意味していることは、説明なしに明白である。なぜならエホバは楯であられ、円楯であられるという表現は、普通に用いられていれ、そこからそれはわたしたちに親しいものとなっているからである。しかし『楯』により特に意味されていることは聖言から認めることができよう、すなわちそれは主については庇護を意味しており、人間については、主の庇護に対する信頼を意味しているのである。『戦い』は(前の1664番に示したように)試練を意味しているように、戦いのあらゆる武器も、試練にぞくしているところの、またいくたの悪と誤謬に対する、すなわち、試練をもたらし、試練を加える悪魔の一味に対する防禦にぞくしているところの何か特殊なものを意味しているのである。それで『楯』と『円楯』と『標的』と『かぶと』と『ほこ』と『やり』と『剣』と『弓矢』と『くさりかたびら』との意義はそれぞれ異なっており、その各々については後に主の神的慈悲の下に述べよう。
[2]『楯』は、それが主に関連しているときは、いくたの悪と誤謬とに対する庇護を意味しており、人間に関連しているときは、主に対する信頼を意味している理由は、それが胸を庇護するものであったということであり、胸によっては善と真理とが意味されており、善が意味されるのは心臓がそこにあるためであり、真理が意味されるのは肺臓がそこにあるためである。