たれ一人
1.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない
2.たれ一人、心の中で主のみを天と地との神として承認しない限り、善から純粋な真理の中にいることは出来ない
1.たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らない
天界の秘義9780〔2〕
聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには、善とは何かを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現れはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善が無いなら他生では死滅してしまうところの生命の無い記憶知としてしか知られるにすぎないからである。
2.たれ一人、心の中で主のみを天と地との神として承認しない限り、善から純粋な真理の中にいることは出来ない
黙示録講解376イ(3)
聖言の霊的意味がキリスト教徒に明らかにされはしなかったのは、高い諸天界に在るような純粋な善と真理とは聖言の霊的な意味の中に隠れており、そうした善と真理とが認められはしないし、知られもしていないかぎり、その意味は開かれることはできなかったのである、それはこうした善と真理とは認められることはできなかったからである。
キリスト教会には純粋な善と真理とは認められも、知られもしていないことは以下の理由のためである、すなわち、その諸教会は、全般的には、法王派と福音派とに分割されており、法王派の教会の者たちは真理について全く無知であるのは、かれらは聖言に依存しないで、かくて聖言であられる、すなわち、神的真理であられる主に依存しないで、法王に依存しており、法王の口からは支配することを求める愛から―その愛は地獄から発しているが、その愛から―発しているものを除いては何一ついかようなものも発出はしないためである。それで彼らのもとには殆ど教会のただ一つの真理すらも存在しないのであり、他方福音派の諸教会の中には信仰のみが救いの本質的な手段として取り上げられ、その結果として愛と仁慈と善は非本質的なものとして斥けられている所には、それ自身において真理である真理は全く存在することはできないのは、真理はことごとく善から存在するからである、なぜなら主は人間の善の中へ流れ入られ、善により人間を明るくされ、人間に真理を認める光を与えられ、それゆえその光がなくては―それは人間の霊的な生命であるが、それがなくては―それは[福音派の者らの唱えることは]聖言から来ているため、いかほど真理のように聞こえるにしても、真理は全く存在しないのであり、それはそれについて抱かれている観念[考え]により誤謬化されている真理である、なぜなら仁慈から分離した信仰からは、または善を欠いた真理からは他のいかような結果も生まれはしないからである。これが聖言の霊的意味がキリスト教会に明らかにされることができなかった理由である、なぜならもしそれが明らかにされたなら、かれらは迷妄[妄想]から発した観念[考え]によりそれを誤謬化し、歪曲してしまったからである。
このことがまた今後たれ一人、もしその者が善から純粋な真理の中にいない限り、聖言の霊的な意味の中へ決して入ることを許されはしない理由であり、たれ一人、心の中で主のみを天と地との神として承認しない限り、善から純粋な真理の中にいることはできないのである、なぜなら主から善のことごとくが、また善から真理のことごとくが発するからである。
聖言の霊的意味は現今開かれ、それとともにまた純粋な真理と善とが明らかに示されているのは、主により最後の審判が遂行され、かくて諸天界における、また諸々の地獄における凡ゆるものが秩序づけられているためであり、そうした理由のため、主によりいかような危害も聖言の霊的な意味の中に在る純粋な真理と善とに加えられることができないように、供えられることができるのであり、こうしたことは最後の審判以前では供えられることはできはしなかったのであろう(小著『最後の審判』73番を参照。)