卓越の歓喜

 

 

天界の秘義3417[2]

 

 例えば、教義的なものの中にいて、生命にはさほどいない者らは天界の王国は地上の王国に似ている、すなわち、人間は他の者を支配することにより偉大になるという点で似ているとのみしか考えていないで、この喜びが彼らの知っている唯一のものであり、これを彼らは他の凡ゆる喜びにも勝ったものとしており、それで主はこの外観に応じて聖言に語りたもうたのである、例えばマタイ伝には―

 

 たれでも行って、また教える者は、天国では大いなるものと呼ばれるでしょう(マタイ5・19)。

 

またダビデの書には―

 

 わたしは言った。あなた方は神であり、あなた方の凡ては至高者の息子たちである、と(詩篇82・6、ヨハネ10・34、35)。

 

 そして弟子たち自身でさえ最初は天界の王国[天国]については―マタイ伝18・1、マルコ9・34、ルカ9・46に明白であるように―地上におけるような偉大と卓越について抱かれる見解以外のものは何ら持っておらず、また王の右手と左手に坐ることを考えていたため(マタイ20・20、21、24、マルコ10・37)、それでまた主はかれらの把握とその精神とに応じて答えられて、彼らの中で彼らの中のたれが最大のものであるかについて争いがおこったとき、以下のように言われたのである―

 

 あなたたちはわたしの王国でわたしの食卓について食い飲みし、王座に坐ってイスラエルの十二の種族を審判くでしょう(ルカ22・30、マタイ19・28)。

 

 なぜなら当時かれらは天界の歓喜は偉大と卓越との歓喜ではなくて、謙遜のそれであり、他の者に仕えることに対する情愛のそれであり、かくて最小のものとなることを欲して、最大のものになろうとは欲しないことのそれであることを知らなかったからである。このことを主はルカ伝に教えられているのである―

 

 たれでもあなた方の中で最も小さいものは、偉大なものとなるでしょう(ルカ9・48)。

 

 

天界の秘義3417[3]

 

かくて知識の記憶知の中にいるが、仁慈の生命の中にいない者らは卓越から生まれてくる歓喜以外の何らかの歓喜の在ることを知ることができないのであり、それが彼らの心に居座っている唯一の歓喜であって、彼らの生命の凡てを作っているため、それで謙遜[へりくだり]と他の者に仕えることに対する情愛から由来してくる天使の歓喜を―即ち、主に対する愛と隣人に対する仁慈の歓喜を―全く知ってはおらず、従ってそこから由来してくる祝福と幸福とを知っていないのである。このことが主が彼らの弱さ[欠陥]に応じて語られた理由であって、彼らがそのことによって、善を学び、教え、行うように、善へ目覚めて、そこへ導かれるためであったのである。それと同時に主は天界の偉大と卓越との性質を教えられているのである(マタイ19・30、20・16、25−28、マルコ10・31、42−45、ルカ9・48、13・30、22・25−28)。これらのものが、またそのようなものが低い度の真理の外観である、なぜなら彼らは以下の理由から実際相対的に偉大になり、卓越し、力あるものとなり、権威を持つからである、即ち、ただ一人の天使でも数万の奈落の霊よりも大きな力を持っているが、しかしそれもその者自身からもっているのではなく、主からもっているのであり、彼は彼自身からは何ら力を持ってはいないことを、かくて彼は最小のものであると信じるに比例して益々主からその力を得るのであり、しかもかれはそのことを彼が謙遜になり、他の者に与えることを求める情愛の中にいるに応じて、即ち、主に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善の中にいるに応じ、益々信じることが出来るのである。