他国の者・異邦人

 

 

 

1.他国の者・異邦人

2.まれなもの

 

 

 

 

1.他国の者・異邦人

 

 

天界の秘義932

 

 『種を播く時と取入れ』は、再生することの出来る人間を意味し、引いては教会を意味していることを聖言から確認する必要はない、なぜなら以下のことが極めて再三記されているからである、即ち、人間は畠に譬えられ、またそれになぞらえられ、かくて種を播く時、または種時に譬えられ、主の聖言は種子に、その結果は生産物に、または取入れに譬えられているのである―こうしたことはその言葉の形式がこのように親しいものにされているため、たれでも把握出来るであろう。全般的にここには凡ゆる人間が取扱われているのである。即ちその者が教会の内にいようと、または外にいようと、主の聖言に親しんでいようと、親しんでなかろうと、主から種子を播かれることは決してその者に欠けることがないのである。主によって播かれた種子が無くては、人間は決して善を行うことが出来ない。仁慈の善はことごとく、異邦人のもとでさえも、主から発した種子であり、これらの者のもとには教会に在るような信仰の善は存在していないけれど、それでも、信仰の善が発生する可能性が在るのである。なぜなら異邦人がこの世で仁慈に生きることを慣わしとしているように、仁慈に生きた異邦人は他生で天使たちから教えられると基督教徒よりも遥かに容易に真の信仰の教義と仁慈の信仰とを掻き抱き、また受けるからである。これについては、主の神的慈悲の下に後に述べよう。

 

 

 

天界の秘義1097

 

「カナンは彼の僕とならなくてはならない」。これは礼拝を全く外なるものから成立させている者は教会の人間たちに卑賤な勤めを行う者らの間にいることを意味していることはユダヤ教会の中の表象的な物から得に明白である。ユダヤ教会では内なる教会はユダとイスラエルにより表象され、ユダにより天的な教会が、イスラエルにより霊的な教会が、ヤコブにより外なる教会が表象されたのである。しかし礼拝を専ら外なるものから成立させた者らは異邦人により表象されたのであって、この者らは他国者と呼ばれて、彼らの僕となり、その教会の中で奴僕の仕事を行ったのである。例えばイザヤ書には―

 

  他国人[他国の者]は立って、あなたらの羊を飼い他国人の息子らはあなたらの耕作人となり、またあなたのぶどう作りとならなくてはならない。しかしあなたらはエホバの祭司と呼ばれ、私たちの神の仕え人と呼ばれなくてはならない。あなたらは異邦人の富を食べ、彼らの栄光をあなたら自身誇らなくてはならない(61・5,6)。

 

 ここには天的な人は『エホバの祭司』と呼ばれ、霊的な人は『あなたたちの神の仕え人』と呼ばれ、礼拝を専ら外なるものから成立させている者は、彼らの畠とぶどう園に働かなくてはならない他国人の息子らと呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義1032

 

道徳的な生活を送り、相互的な仁慈と無垢との中に生きた異邦人は他生で再生する。

 

 

 

天界の秘義2049

 

「あなたの裔のものでない他国人である凡ゆる息子〔男の子〕」。これは教会の外にいる者たちを意味していることは『他国人である息子』の意義から明白であって、それは教会の内に生まれておらず、かくて信仰の善と幾多の真理とを知っていないため、その善と真理との中にいない者たちである。『他国人である息子』はまた外なる礼拝の中にいる者たちを意味している(その者たちについては1097番を参照)、しかしそれがその意義であるところには、教会の中にいる者たちが取り扱われているが、それに反し私たちが今取扱っている記事では主の教会が全般的に取扱われており、それで『他国人である息子たち』は、異邦人の場合のように、教会の中に生まれていない者たちを意味している。教会の外にいる異邦人たちは、真理の中にいるかもしれないが、しかし信仰の真理の中にはいないのである。彼らの真理は、十戒の教令のように、両親は尊ばなくてはならない、人間は殺したり、盗んだり、姦淫を行ったりしてはならない、他人のものをむさぼってはならないということである。しかし信仰の真理は永遠の生命、主の王国、主御自身にかかわる凡ゆる教義的なものであって、こうしたものは異邦人には、彼らは聖言を持っていないため、知られている筈はない。

 

 

 

天界の秘義2280

 

彼らの理解は未だ誤謬の原理のために汚されておらず、その意志もまた悪の生命[生活]をさほど確認していないから

 

 

 

天界の秘義4958

 

 進んで教えを受けようとする者

 

 

 

天界の秘義9192

 

無知から真でないものの中にいるものの、善の中にいる者。

 

異邦人が天界へ迎えられること(2589〜2604、2861、2863、3263、4190、4197)

 

教会内の多くの者のように、また異邦人と呼ばれている教会外の多くの者のように善の中にはいるものの、真理でない事柄の中にいる者たちは、否、無知から誤謬の中にいる者たちは、実際その誤謬を真理として認めてはいるものの、しかしその誤謬は善から生まれているため、彼らはそれを善に向けるため、悪から発している誤謬の中に在るような邪悪なものは何一つその誤謬の中には存在していないのである。そして善から発した誤謬は穏やかで、柔軟性があるため、こうした人物は真理を受ける能力を持っており、更に天使から真理を教えられると、実にそれを受けるのである。こうした誤謬は汚らわしく見えはするが、それでも味の良い食物に譬えられる。それに反し、悪から発した誤謬は内部も腐敗している不潔な食物に譬えることが出来る。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P260

‘89・9・20

 

十字架から世界に住むすべての人を見下ろしながら、多くの国々を住まいとするあなた方に語っている、間もなくあなたの時が来る、殆ど時間は残されていない、夜な夜な嘆く日々までもう長くはない、あなた方不忠実な羊飼いたちよ、信義のなさから罪を犯す羊飼いたちよ、平和がない時に、平和!と叫ぶ者たちよ、さまざまな方向に迷い出た者たち ペトロのもとに戻って来なさい。 私に仕えなさい、邪悪な者に仕えなくてよかろう? 私のものとなりなさい、反逆者ではなく、どうして反逆者に喜んで仕えるか? 外国人でさえ、この者たちでさえ我が声に耳を傾け みことばを解した。 私の指針は聖であり はっきりと言うがいつまでも永遠に聖であり続ける ♡ 娘よ、みことばを読みなさい

 

    マタイ福音書16・18−19

 

(主の指し示されたところは再びマタイの5・18−19でした)

 

読んで書きなさい:「あなたがたによく言っておく。天地の続くかぎり、律法の一点一画も消えうせることはなく、ことごとく実現するであろう。 だから、最も小さな掟の一つでもこれを無視し、またそうするように人びとに教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれるであろう。 しかし、掟を行い、またそうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれるであろう。」子よ、もう休みなさい、あなたの幼児の−ような−信仰で我が霊魂を悦ばせてほしい、来なさい、私のうちに憩うように、主があなたを祝福する、私を愛してほしい ♡

 

主に讃美!

 

 

 

 

2.まれなもの

 

 

天界の秘義1843

 

 「あなたの裔は他国者となるであろう」。これは仁慈と信仰とがまれなものになることを意味していることは『他国者』と『裔』の意義から明白である。『他国者』または『滞在人[宿り人]』はその地に生まれないため、それで土着の者としては承認されず、それで他国者として眺められる者を意味している。しかし『裔[]』は(前の255、1025番に、また直ぐ前の3節に示したように)、仁慈とその信仰とを意味している。他国者として眺められるものは『見なれない』者であり、他国者はその地にいないものであり、またはその地に属さないものであるため、それがまれなものであることが生まれてくるのであり、したがってそれは『裔[]』であるところの仁慈と仁慈の信仰とはまれなものになるであろうということをここに意味している。ここに取り扱われているものは、『非常な暗黒』が、即ち、誤謬が存在するところの終末以前の時であり、その時はその裔は『他国者』となるのであり、即ち、仁慈と信仰とはまれなものとなるのである。

 

 

 

[]最後の時には信仰はまれなものになるであろうということは、主が代の終り[終結、完結]について話された時(マタイ24・4から終りまで、マルコ13・3から終りまで、ルカ21・7から終りまで)主により予告されたのであって、そこでは言われている事柄はことごとくその時代には仁慈と信仰とはまれなものとなり、遂にはそれらは皆無となるであろうということを意味しているのである。それに類したことがヨハネにより黙示録の中に、また予言者の書の多くの記事の中に、さらに聖言の歴史的な部分の中に言われているのである。