義しい者

 

 

 

天界の秘義612

 

「ノアはその世代の者の中では義しい完全なものであった。」このことはかれが仁慈を与えられることができるような者であったことを意味していることは『ただしい、完全な』の意義から明らかであり―『ただしい』(または義しい)は仁慈の善に、『完全な』は仁慈の真理に関わりをもっている―またその教会の本質的のものが仁慈であることからも明らかである。

 

義しい者はわたしの父の国で陽のように輝くであろう(マタイ13・43)。

 

『義しい者』は仁慈を与えられている者を意味しており代の終結について主は言われた―

 

天使は出て行って、悪い者を義しい者の間から切りはなすであろう(5・49)

 

 

 

天界の秘義5069

 

 右手の者たちが『義しい者』と呼ばれていることは、

 そのとき義しい者はかれに答えて、言うであろう、云々、

また、

 義しい者は永遠の生命へ入るであろう、

彼らが主の義の中にいることを意味している。仁慈の善の中にいる者たちは凡て『義しい者』と呼ばれているが、それは彼らが彼ら自身から義しいのではなく、主から義しいのであり、その義が彼らのものとなされるということである。自分自身は自分自身から義しいのであって、自分の中にはもはや悪は些かも無い程に義しくなっていると信じている者は、義しい者の中にはいないで、義しくない者の中にいるのである、なぜなら彼らは善を彼ら自身に帰し、またそのために自己の功績を感じており、こうした者は真の卑下から主を決して崇拝しないからであり、かくて聖言に『義しい者』、『聖徒』と呼ばれている者たちは、善はことごとく主から発し、悪はことごとく自分自身から発しており、即ち、地獄から発して、自分のものとなっていることを知り、また承認する者たちである。

 

 

 

天界の秘義5070

 

 義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。

悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように ― 特にこれらの者自身には ― 実際見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜなら彼らはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることが出来よう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在り得ないからである。それで問題の人物は狂人に属しているような生命以外の生命は持たないのである。

 

 

 

天界の秘義9262

 

「無垢な者と義しい者とを殺してはならない」。これは内的な、また外的な善を破壊することに対する反感を意味していることは以下から明白である、即ち、『無垢な者』の意義は内的な善の中にいる者であり、かくて抽象的な意義では、内的な善であり、(そのことについては以下に述べよう)、『義しい者』の意義は外的な善の中にいる者であり、抽象的な意義では、外的な善である、なぜなら『義しい』は隣人に対する愛の善について述べられ、『無垢』は主に対する愛の善について述べられているからである。隣人に対する愛の善は外的な善であり、主に対する愛の善は内的な善である。そして『殺すこと』の意義は破壊することである。『義しい』は隣人に対する愛の善を意味していることは以下に見られるであろう。しかし『無垢』が主に対する愛の善を意味していることは主を愛する者たちは無垢であるためである。なぜなら無垢は私たちは私たち自身では悪以外には何ごとも欲しないし、誤謬以外には何ごとも認めはしないし、また愛に属した善の凡てと信仰に属した真理の凡てとは主のみから発していることを心で承認することであるからである。愛により主と連結している者たちを除いてはたれ一人これらの事を心で承認することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義9263〔2〕

 

それでも聖言に『義しい』と呼ばれている者たちはこうした者ではなくて、それは主から隣人に対する仁慈の善の中にいる者たちである。なぜなら主のみが義であられるため、主のみが義であられるからである。それで人間は主から善を受けるに比例して、即ち、人間が自分の中に主に属したものを持つに比例して、また自分の中に主に属したものを持つ方法に従って、義となり、義とされているのである。主は主が主御自身の力によりその人間的なものを神的なものとされたことを通して義とされ給うたのである。この神的なものが、それを受ける人間のもとで、人間のもとに在る主の義であり、隣人に対する仁慈の善そのものである、なぜなら主は神的な愛〔神の愛〕そのものであられるため、愛の善の中におられ、またそれを通して信仰の真理の中にもおられるからである。