天界の秘義1463[3]

 

『滞在する[宿る]こと』はまた『旅すること』とと『住むこと』とほとんど同一の意義を持っている。『旅すること』により生命の整備と秩序とが意味され、『住むこと』により生きることが意味されている(前の1293番を参照)、そのためカナンの地もまたアブラハムとイサクとヤコブとが宿った地と呼ばれている(創世記28・4、36・7、37・1、出エジプト記6・4)、ヤコブはパロに言った―

 

  わたしが宿った年の日は、わたしは生命の年の日は僅かしかなく、また悪いものでした、それらはわたしの父たちが宿った日の中で、その生命の日にはたっしてはおりません(創世記47・9)。

 

 ここには『滞在する[宿る]』ことは生命[生活]と教えられることとを意味している。

 

 

天界の秘義1554

 

 「かれはその旅に従って行った」。これは秩序に従って、を意味していることは『旅』の意義から明白であり、それはさらに進展することであり(これについては1457番を参照)、進展は秩序に従って為されたため、ここの『旅』はそれ以外のことを意味していない。主はその幼少時代の最初から神的秩序そのものに従って天的なものへ進まれて天的なものの中へ入られたのであって、内意ではこの秩序の資質がアブラムについて言われていることにより記されているのである。主により新しく創造られつつある者のすべてもまたこのような秩序に従って導かれているが、しかしこの秩序は人間のもとでは各々の者の性質と資質とに応じて変化している。しかし人間が再生しつつある間に由って以て導かれている秩序は主にのみ知られていて、人間にはたれにも、天使にさえも漠然としか知られていないのである。

 

 

天界の秘義3148

 

旅行すること、旅をすることは教えを受けることに、引いては生命にかかわるものを意味したということであり(1293、1457、1463、2025番を参照)

 

 

天界の秘義4598

 

「イスラエルは旅をした」。これはこの時の自然的なものの天的な霊的なものを意味していることは以下から明白である、すなわち、『旅をすること』の意義は継続的なものであり、または連続的なものであり(4375、4554番を参照)、ここでは、内的なものに向ってさらに、であり、ここの『イスラエル』の表象は自然的なものの天的な霊的なものである(4286番)。自然的なものの天的な霊的なものの何であるかは前に説明したところであり、すなわち、それは真理の善であり、または信仰の真理により得られる仁慈の善である。内的なものに向ってすすむことの何であるかは世ではほとんど知られていない。それは記憶知の中へ進んで行くことではない、なぜならこれは内的なものへ何ら進むことなしに再三存在し、内的なものから離れ去ってさえしも非常にひんぱんに存在しているからである。それはまた成人期の判断の中へ進んで行くことでもない、なぜならそれもまた時としては内的なものから離れ去っても存在しているからである。それはまた内的な真理の知識の中へ進むことでもない、なぜならこの知識もその人間がその知識に感動しないかぎり些かの益にもならないからである。内的なものへ進んで行くことは真理のいくたの知識に対する情愛の中に植え付けられている真理の知識により、かくていくたの情愛により天界と主へ向って進んで行くことである。