食べる

 

 

1.食べる

2.かつれて

 

 

 

1.食べる

 

 

天界の秘義2187

 

「そしてかれらは食べた」。これはこのようにして行われた伝達を意味していることは『食べること』の意義が伝達されることであり、連結されることであることから明白である、そのことはまた聖言からも明白である。アロンとその息子とレビ人とまた民が聖所で生けにえの聖いものを食べたというじじつは、レビ記6・9、10からとった記事を前に説明したさいに言ったように、伝えられ、連結し、己がものとすること以外には何ごとも意味しなかったのである(2177番参照)、なぜならかれらが食べた聖められたものにより意味されたものは天的な霊的な食物であり、従ってそれを己がものとすることであったからである。

 

 

 

天界の秘義3513

 

「わたしは食べましょう」。これはこのようにして所有することを[自分のものとすることを]意味していることは、『食べること』の意義が所有する[自分のものとする]ことであることから明白である(2187、2343、3168、3503番を参照)。いくたの真理が、または善と真理とにかかわるいくたの知識が楽しい、歓ばしいものにより自然的なものの中へ徐々に注ぎ入れられるとき、所有すること[自分のものとすること]が遂行されるのであり、これらの真理が自然的なものの中に善と接合すると、そのとき合理的なものの真理と善との交流が遂行され、かくて合理的なものとの交流が遂行されるのであり[そのとき合理的なものの真理と善とが伝達され、かくして合理的なものが伝達されるのであり]、この交流[伝達]が、真理と善とは自然的なものの中にある合理的なものにぞくしているからには、所有[自分のものとすること]と呼ばれるものである、なぜなら合理的なものの中に在るものは自然的なものの中に在るものに対照されるとき、個別的なものが全般的なものに対照されるときと似ているからである。

 

 

 

天界の秘義3513[2]

 

 聖さんで食うことと飲むことによって意味されている事柄もそのようなものであり、そこにもまた『食うこと』により所有[自分のものとすること]が意味されており、すなわち、『食うこと』により善の所有[善を自分のものとすること]が、飲むことにより真理の所有[真理を自分のものとすること]が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義3570

 

「彼はそれを彼の知覚に持ってきた、彼は食べた」。これは先ず善が連結することを意味し、「彼は彼にぶどう酒を持ってきた、彼は飲んだ」はその後真理が連結することを意味していることは、以下から明白である、すなわち、『食べること』の意義は善の方面で連結され、所有されることであり(それについては直ぐ前の3568番を参照)、『ぶどう酒』の意義は善から発する真理であり(1071、1798番)、『飲むこと』の意義は真理の方面で連結されて所有されることである(3168番)。イサクにより表象される合理的なものの善が先ずそれ自身に善を連結させ、後に真理を連結させ、そしてこれがヤコブである自然的なものを通して行われるという事情については、実情は以下のようである、すなわち、自然的なものが、それは外面的には善であるが、内面的には真理であるという状態の中にいると(3539、3548、3556、3563番)、そのときはそれは、善ではないが、それにも拘らず有益であって、その秩序において善に到達する手段であるような多くのものを容認するのである。しかし合理的なものの善はこの源泉からは、合理的なものの善に一致しているものを除いてはいかようなものをもそれ自身に連結させはしないし、また所有もしない[己がものともしない]のである、なぜなら善は他の何ものをも受け入れないし、何であれ一致しないものはことごとく斥けるからである。合理的なものの善は自然的なものにおける爾余のものを[その他のものを]そのものが合理的なものの善それ自身に一致するものをさらに多く容認し、導入する手段として役立つために後に残しておくのである。

 

 

 

天界の秘義9412

 

「食べ、また飲んだ。」これは礼拝の善と真理とについて教えられることを意味していることは以下から明白である、即ち、『食べること』の意義は善の連結と所有〔善により連結し、善を己がものとすること〕であり(2187,2343、3168、3513、3596、3832、4745、5643番を参照)、『飲むこと』の意義が真理の連結と所有〔真理により連結し、真理を己がものとすること〕である(3089、3168、4017、4018、5709、8562番を参照)。それはまた教えられることを意味していることは、即ち、『食べること』は善について教えられることを、『飲むこと』は真理について教えられることを意味していることは、霊的な食物は智恵が発生する源泉である凡ゆる信仰の善であり、霊的な飲物は理知が発生する源泉である凡ゆる信仰の真理であるためである(56−58、681、1480、3069、3114、3168、3772、4792、5147、5293、5349、5342、5410、5426、5487、5576、5579、5582、5588、5655、5915、8562、9003番を参照)。ここから古代人の間には宴会、祝宴、饗宴、晩餐が設けられたが、それは彼らが知恵と理知の事柄を手段として共に交わるためであったのである(3596、3832、5161、7836、7996、7997番を参照)。

 

 

 

 

2.かつれて

 

 

エレミヤ15・16

 

あなたの御言葉が見いだされたとき

わたしはそれをむさぼり食べました。

あなたの御言葉は、わたしのものとなり

わたしの心は喜び躍りました。

万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって

呼ばれている者です。

 

 

 

 

天界の秘義6829

 

しかしその人間が試練から出て来ると、その時は光はその霊的な熱と共に、即ち、真理はその善と共に現れ、そこから彼は心労の後で喜びを得るのである。これが他生で夜に続いている朝である。善がその時認められ、真理が現れる理由は、試練の後で善と真理とは内部に浸透して、そこに根を張るということである。なぜなら人間が試練を受けている時は、彼は謂わば善に飢え、真理に渇いており、それで(試練から)出て来る時は、飢えた人間が食物をむさぼり食うように善を吸引し、渇いた人間が飲み水を飲むようにも真理を受けるからである。更に神的なものから光が現れると、幾多の誤謬と悪とは遠ざけられ、そしてこれらのものが遠ざけられると、真理と善とが更に内的に浸透する道が開かれるのである。これらが、試練の後で愛の善が主からその真理と共に現れてくる理由である。試練の暗さと心労との後に、輝きと喜びとが現れてくることは他生の凡ての者に知られている、なぜならそれはそこでは普通の出来事となっているからである。