信、望、愛、三つの枢要徳

 

1.ルイザ・ピッカレータ

2.マリア・ワルトルタ

 

 

1.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P165

 

 まだ私が神聖な希望の海の中に自分を見失い、溺れていたあいだに愛するイエスは再びご自分をお現しになり、今度は愛徳についてお話しになりました。それは全ての徳の中で最も秀でたものですが、他の二つの徳とは姉妹関係になり、あたかもただ一つの徳のようでありますが、それらは三つの別々な徳です。「事実、もしちょっと火を眺め、それについて考えてみれば、あなたはすぐにこのお互いに一致した三つの徳についてのおぼろげな観念を持つことができるでしょう。火をつけたとたん、最初にわたしたちの目に映るのは、周り全体に生き生きとした明かりを放つ光です。光とは、洗礼によってキリスト信者の霊魂の中にわたしが呼び起こした信仰のシンボルです。次にその周りには、光とともに熱が発散するのを感じるでしょう。それからだんだんとその光がほとんど消えるまで弱まっていくと、火によって生じた熱は、火が完全に消えてしまうまで、もっと強い熱を出します。

 三つの枢要徳もこのようなものです。霊魂があの崇高な存在についての最初の情報を得る時、その心のうちに信仰の火が灯ります。そのあと霊魂が最高善である神に向かって絶え間なく上がっていくことによってそれは育ち、発展していきます。そのため神がご自分の被造物にたいして溢れるばかりに与えられる神的なそれぞれの属性から知性的な光を獲得するようになります。このように生き生きとした信仰の輝きに照らされて、被造物はその対象を手に入れようと熱望するので、さらにこの信仰は彼女に神というこの非常な善を得ることができるのだという信頼を与えます。そこで彼女はその獲得のために最も適切な方法を調べますが、希望に満たされて朝から晩まで、山から山へ谷や広大な平野、湖や川を越え、果てしない海をわたって神の慈愛のみでなく、神そのものを所有したいという唯一の目的をもって、何か月どころか、何年も何年もかけてさがし歩くのです。この神の所有にまで到着しようという能動的な熱望は、神の愛を呼び、これは二人の姉妹、つまり信仰と希望に接合されます。さあ、わたしの花嫁よ、これが信、望、愛という三つの枢要徳についてのわたしの説明です。そしてあなたは疑いなく近いうちに、神聖なペルソナである聖三位一体を絶えず所有するまでにいたり、あなたのうちに絶えざる確固とした住みかをわたしたちに提供してくれるでしょう。

 

 数分間の休みのと、イエスはまたお現れになり、続けて申されました。「わたしの花嫁よ、もし信仰が霊魂の視力としての役を果すとしたら、希望は信仰の栄養物です。それは信仰がその背景に設定するあのいくつかの善を取得しようというエネルギーと熱望を霊魂に注ぎ入れます。さらに希望は霊魂に常に心の落ち着きと完全な平和をもって難しい事業にいどむための勇気を与えてくれます。それは、その働きに幸運な成功を与えることができるのに適した方法と道をたどって行けるように、霊魂を不屈なものとしてくれます。

 

 愛徳とは、そこから光と信仰の滋養物が現れる本体です。それなしでは、ちょうど火なしには光も熱もないように、信仰も希望も持つことはできないでしょう。鎮痛剤の軟膏のように希望の焦がれと信仰の視野の成熟に効果を与えながら、どこまでも広がり浸透していくのは愛徳です。それはその愛の甘美さをもって苦しみを香ばしく甘いものとするので、霊魂は苦しみを熱望するまでにいたります。まことの愛を有する魂は神の愛のうちに、その愛のために働くことによって、自身の周りに神ご自身から汲み取ったあの天的な香りを発散します。もし全ての徳が霊魂をほとんど孤独で内気なものにするとしたら、愛は光、熱、微妙な香りなどを放つ本体であり、最も香り高い効果をもった香油であるので、霊魂が神にたいして抱いているあの限りない愛によって人びとの心を一致、いや、むしろ融合させてしまいます。最もひどい苦しみを喜びをもって忍ばせるのは愛です。」愛のうちに完全に変容させられた霊魂は、もはや苦しみなしに生きることはできないまでになり、それが欠けたときには神に叫んで言いたくなります。「イエスよ、花で私を支え、果実の酸味、すなわち苦しみによってあなたのうちに私を入れて下さい。私の魂はますますあなたに焦がれ、あなたのために忍ぶ甘美な苦しみによってでなくてはそれを満足させることはできないのです。ああイエスよ、よりにがいあなたの苦しみをお与え下さい。私たちを愛するがゆえに御心を支える愛の熱烈さをもって、あなたがこれほど苦しまれるのを見るのに、私の心はもう耐えられないのです。」

 

 するとイエスは私に、「わたしの愛は燃え尽くす火です。それがどれかの霊魂に燃えつく時それは他の徳のことを心配することなく全てを行います。それは全てを変化させ、それらを自分自身の内奥に取り込み、それが全ての他の徳の女王になるようにと、それらを治め、支配し、どんな権威にも譲歩しません。」と言われました。このように甘く魅力的なイエスのお言葉の結果として私にかもしだされた気持ちをどう説明したらよいでしょうか? ただ、それは私のうちに苦しみへの非常な渇望の火を灯しましたので、あらゆる痛みや苦しみを熱望することはほとんど自然なこととなり、この時から以後、苦しみがないということはもっとも大きな不幸であると考えるようになったということを申すことができます。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P243

 

「我が娘よ、一つの主題を理解するためには、信じるということが必要である。これがないとき、すべては人間的知性の中で闇となるただ信じることだけが、頭の中に光をともし、この光を通して人ははっきりと、真理か偽りか、恩恵がいつ働くか、いつそれが本当のものであるか、または悪魔的なものかを見分けることが出来るのである。

 福音書は全ての人に知られているが、私の言葉の意味と、その中に含まれている真理を理解するのは誰か? 永遠の国を買い取るための宝物を入手するために、自分の心の中に私の言葉を保つ人があるし、それを信じる人もいる。ところが他の人々は、それを理解しないだけでなく、私の言葉を馬鹿にし、もっとも聖なる事柄をからかうために、福音書の言葉を用いる人もいる。

 信じ、希望し、愛する人の心の中には全てが記されているが、他の人々のためには何も書かれていない、と言うことができる。あなたにとってもこのようである。少し信仰のある人なら、ものごとをはっきりと見ることができ、真実を見いだすが、信仰のない人は、すべての事柄を混乱のうちに眺めるだけである。」

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336

 

「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」