天界の秘義2845

 

創世記22章17節「わたしはあなたを祝しに祝し、あなたの裔を、天の星のように、海岸にある砂のように増やしに増やし、あなたの裔はあまたの敵の門を嗣ぐであろう」。『わたしはあなたを祝しに祝し』は真理の情愛から実を結ぶことを意味し、『わたしは増やしに増やそう』は、そこから真理が派生してくることを意味し、『あなたの裔』は、信仰の善の中にいて主の人間的なものにより救われるところの霊的な者たちを意味し、『天の星のように』は善と真理にかかわる夥しい知識を意味し、『海岸に在る砂のように』はそれに相応している夥しい記憶知を意味し、『あなたの裔はあなたの敵の門を嗣ぐでしょう』は、仁慈と信仰が、以前悪と誤謬が在った所に入って来るに違い無いことを意味している。

 

 

天界の秘義2850

 

「海岸にある砂のように」。これはそれに相応している夥しい記憶知を意味していることは以下から明白である、すなわち、『海』の意義は全般的に記憶知であり、または記憶知の集まったものであり(28、2120番参照)、『砂』の意義は特定的な、または個々の記憶知である。記憶知が『砂』に譬えられているのは、砂を作っている小石はその内意では記憶知を意味しているためである(643、1298番)。

 

 

天界の秘義6762

 

「彼を砂の中に隠した」。これは彼がそれを誤謬の在るところへ放逐したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『隠すこと』の意義は放逐することであり、『砂』の意義は真の記憶知であり、その対立した意義では、誤った記憶知である。『砂』にこうした意義があるのは、砂が生れてくる『石』にその両方の意味があるためである(1298、3720、3769、3771、3773、3789、3798、6426番を参照)。(中略)

 

そして『砂』は真の記憶知を意味しているため、それはまたその対立した意義では誤った記憶知を意味している、なぜなら聖言の大半のものにはまた対立した意義があり、そしてその対立した意義の何であるかは純粋な意義から知られるからである。『彼は彼を砂の中に隠した』により意味されているところの、誤謬の間にこのように遠ざけることについては、実情は以下のごとくである。誤謬の中にいる奈落の霊らが霊たちの世界にいて、そこで試練に置かれている者たちの真理を破壊しようと試みると、その後では地獄へ放逐されて、そこから最早外へ出ることは出来ないのである。そのことは多くの経験から私は知ることが出来たのである。これが誤謬の間に放逐することの意義である。

 

 

 

黙示録12・18

 

そして、竜は海辺の砂の上に立った。

 

 

黙示録講解771

 

18節。「そして私は海の砂の上に立った」は、『竜』により意味されている者らの状態の連続を意味している。このことは『海の砂の上に立つこと』の意義から明白であり、それは『竜』により意味されている者らはいかような性質を持っているかを認め続けることである、なぜなら以下のことが続いて言われているからである、すなわち、『彼は一つの獣が海から出て来るのを見たが、これにその竜はその力とその王座とその権威とを与えるのを見た』と言われ、後に『彼は一つの獣が地から出て来るのを見たが、それは竜として話した』と言われ、その他幾多の事が続いて言われているからである。そしてこれらの獣により竜である者らの状態が更に記されているため、それでこのことが『海の砂の上に立つこと』により意味されていることである。更に、『海の砂』は、信仰について実に考えはするが、仁慈である信仰の生活〔生命〕については些かも考えはしない者らのもとに在るような不毛の状態を意味している、なぜなら霊界でそうした者らが住んでいる所には石とまた砂の堆積以外には何一つ見られず、まれにしか草または潅木が見られず、これもまた『海の砂』が『竜』により意味されている者らの状態を意味している理由である。

 

「そして私は(*)海の砂の上に立った」(*訳のまま)

 

 

黙示録20・7−8

 

この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。

 

 

啓示による黙示録解説860

 

「その者らの数は海の砂のようである」は、こうした者ら(*)が夥しくいることを意味している。彼らの夥しいことが『海の砂』に譬えられているのは、『海』により教会の外なるものが意味され(402、403、404、470番)、『砂』により海で底になる以外には何の役にも立たないものが意味されているためである。彼らの数は非常に大きいため、それでそれは以下のように呼ばれている―

 

 彼らの埋葬の谷、ゴグの夥しい群れ、彼らのいる都の名は、夥しい数(エゼキエル39・15,16)。

 

*内なる霊的な礼拝を欠如した外なる礼拝の中にいる者ら、信仰のみの異端