崇拝

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P167

 

神にせよその他の力にせよ、何かを崇拝せずにいる人間はほとんど皆無に等しい。物質主義に染まった無神論的思想家や科学者でさえ、かりに神を崇拝しないとしても、権力の座に祀(まつ)り上げた偉人や英雄、何かの理念を崇拝しているものである。釈尊は神について何一つ教えなかったため、弟子たちは神の代わりに釈迦を崇拝する結果になった。中国でも、神の礼拝が教えられなかったために、人々は祖霊を崇拝している。未開人でさえ、何かの力か霊かを拝んでいる。つまり、人間というものは崇拝せずにはいられないのである。このような逃れることのできない崇拝への願いは、人がそお願いに導かれて創造主と結ばれ、永遠の交わりを楽しめるよう、創造主自らが人間の中にお植えになったものである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P168

 

人は限定ある生物である。外的感覚にも内的感覚にも制限があるのはこのためである。被造物のすべての面を知覚することは、人間にはできない。全部を知ろうとすれば、それこそ無数の感覚が必要になってくる。数えるほどのわれわれの感覚は、数えるほどの被造物の側面とその性質しか知覚できず、それも十分とはいい難い。こうした制限にもかかわらず、心は真実を知覚している。それは知性とは別個のものであって、それがいかに適切な知覚であるかということが知性にはわからない。人間の目は小さくとも遠大な距離を見渡し、人の届きえない場所にまで行き着く。何光年あるとも知れぬ星にまで届き、その動きを観測し輝きを楽しむ。同じく心(ハート)の目も神の深きをみつめ、その洞察が、心の必要を永遠に、完全に満たしてくださる神への崇拝へと、人をせき立てる。