外なるものの中にのみいる者

 

 

 

天界の秘義4459[2]

 

 ヤコブの息子たちまたは子孫は内なる人の真理と善については悪い見解と意図以外のものを持つはずはなかったのである、なぜならかれらは内なるものをもたない外なるものの中におり(4281、4293、4307、4429、4433番を参照)、また内なるものを全くかえりみないで、そのため全くそれらのものを軽蔑したからである。現今のその民族もまたそのようなものであり、外なるものの中にのみいる者らは内なるものの中にいることの何であるかを知りさえもしていない、なぜならかれらは内なるものとは何であるかを知らないからである。もしたれかがかれらの目前で内なるものを語るなら、かれらはそれを教義から知っているので、それがそうであると肯定するか(それでもそうした肯定を佯ってしているのであるが)、またはそれを心でも唇でも否定するか、するのである、なぜならかれらは外なる人の感覚的な事柄より先にはすすまないからである。従ってかれらは死後の生命を全く信じていないし、また自分たちがその身体をもって甦らないかぎり、何らかの復活がありうることを信じもしないのであり、それでかれらは復活についてはそのような見解を持つことを許されているのであるが、それはもしそうでないとかれらは全く何一ついかような見解も持たないからである、なぜならかれらは身体の生命は死後も生きる霊の生命から発していることを知らないで、生命をすべて身体に与えているからである。外なるものの中にのみいる者はそれ以外の信念を持つはずはないのである、なぜならかれらにあっては外なるものは内なるものについて考えることをことごとく消滅させ、従って内なるものに対する信仰をことごとく消滅させてしまうからである。

 

 

天界の秘義4459[3]

 

 現今こうした種類の無知がこの上もなく支配しており、それで内なるものを離れて、外なるものの中にいることの何であるかを述べることが必要である。良心を欠いている者はすべて外なるものの中にのみいるのである、なぜなら内なる人はそれ自身を良心により明らかに示すからである、真で善いことを真で善いことのために考えないし、また行わないで、自分自身の名誉と利得を得るという理由から自己のために考え、また行い、またたんに法律を恐れる恐怖から、また自分の生命を恐れる恐怖からのみ考え、行う者はすべて良心を持ってはいないのである。なぜならかれらは、もしその名声、名誉、利得、または生命が危険にさらされないなら、良心なしに凡ゆる種類の邪悪に突入してしまうからである。他生ではそのことは身体の生命の中ではこうした性格を持っていた者たちから非常に明白となる、なぜならそこでは、その内部が開かれるため、かれらは他の者を破壊しようと絶えず努力しており、それでかれらは地獄にいて、霊的な方法でしばりつけられているからである。

 

 

天界の秘義4459[4]

 

 外なるものの中にいることの何であり、内なるものの中にいることの何であるかをさらに明らかにするために、また外なるものの中にのみいる者たちは内なるものは何であるかを考えることはできないし、それでその内なるものにより心を動かされることができないことを明らかにするために(なぜなら何人もその考えもしないものにより感動はしないからである)、天界では最小のものであることが最大のものであることであり、自らを卑しくすることが高められることであり、貧しく乏しいことが豊かで満ち溢れていることであるということを一例として考えてみよう。外なるものの中にのみいる者はこれらの事を把握することはできないのである、なぜならかれら最小の者は到底最大の者となることはできないし、また自らを卑しくしている者は高められることもできないし、貧しい者は富んだ者に、または乏しい者は豊かになることはできないと考えるからであるが、しかし天界ではそのことが正に事実そのものなのである。そしてかれらはこれらの事柄を把握できないため、そのことに感動することはできないのであり、かれらがその中にいるところの身体的なものと世的なものからそうしたことを反省すると、かれらはそうしたことに嫌忌を覚えるのである。こうした事柄が天界に存在していることをかれらは些かも知ってはいないのであり、外なるものの中にのみいるかぎり、それを知ろうとはのぞまないし、いな、知ることはできないのである。にも拘らず天界では自分は自分自身からは何の力も持ってはおらず、自分の持っている力はすべて主から発していることを心から―すなわち情愛から―知り、承認し、信じている人間は最小のものであると言われているが、それでもかれは主から力を得ているため、最大の者なのである。自分を卑しくしている人間が高くされるという場合も同じである、なぜなら自分は自分自身では何ら力を持ってはいないことを情愛から承認し、信じもして、自分を卑しくしている者は主から他にもいやまさって力を、真理の理知を、善の知識を与えられるからである。貧しく乏しい者が富んで豊かであることも同一である、なぜなら自分は自分自身では何ものも持ってはいないし、自分自身では何ごとも知らないし、何ごとにおいても賢明ではないし、それで自分自身では全く力を持っていないことを心からまた情愛から信じている者は貧しく乏しい者であると言われているからである。天界ではこのような人間は富んで満ち溢れているのである、なぜなら主はかれが他の凡ての者にもまさって賢く、他の凡ての者にもまさって富み、最も壮麗な宮殿の中にすら住み(1116、1626、1627番)、天界の凡ゆる富を貯えているほどにもかれに富をことごとく与えられるからである。

 

 

天界の秘義4459[5]

 

 また一つの例として以下のことを考えられたい、すなわち、外なるものの中にのみいる者は天界の喜びは隣人を自分自身にまさって、主を凡ゆるものにもまさって愛することであって、幸福はこの愛の量と質とに応じていることを到底悟ることはできないのである、なぜなら外なるものの中にのみいる人間は自分自身を隣人以上に愛しており、もし他の者を愛するなら、それはかれらが自分に好意を示すからであり、それでかれはかれらを自分自身のために愛しており、かくて自分自身をかれらの中に、自分自身の中にかれらを愛しているのである。こうした性格の人間は自分自身にまさって他の者を愛することの何であるかを知ることはできないし、実にそれを知ろうとも欲しないし、また知ることもできないのであり、それでかれは天界はこのような愛から成っていると話されると(548番)、それに対し嫌悪を感じるのである。ここからその身体の生命の間にこうした性格を持っていた者らは天界の社会には近づくことはできないのである、なぜならかれらはそのようなことをすると、その嫌悪のあまりに、自分自身を地獄に 真逆様に投げつけるからである。

 

 

天界の秘義4459[6]

 

 外なるものの中にいることの何であるか、内なるものの中にいることの何であるかを知る者は現今では僅かしかいないため、また大半の人々は内なるものの中にいる者たちは外なるものの中にいることはできないし、またその反対に外なるものの中にいる者は内なるものの中にいることはできないと信じているため、わたしは説明のためにさらに一つの例を引照しよう、身体の栄養と霊魂の栄養とを考えてみられよ、すなわち、たんに外なる快楽の中にいる者は自分自身を重んじ、胃袋を甘やかし、ぜいたくに暮らすことを愛し、快楽の極みを食べ物と飲み物とにおいているのである。内なるものの中にいる者もまたこれらのものに快楽を感じているが、しかしかれを支配している愛は身体の健康のために身体を楽しく食物で養うことであって、それはかれが健全な身体に健全な心を持つためであり、かくて主として心の健康のためであって、心の健康に身体の健康は手段として仕えているのである。霊的な人間はそこにも止まらないで、心または霊魂の健康を理知と知恵を得る手段としてみとめており、それも名声と名誉と利得のためではなくて、死後の生命のためなのである。それよりもさらに内的な度において霊的なものである者は理知と知恵とを自分が主の王国における有用な一員として仕えることができることをその目的としている媒介的な目的として認めており、天的な人間である者は自分が主に仕えることができることをその目的としているのである。このような者には身体の食物は霊的な食物を楽しむための手段であり、霊的な食物は天的な食物を楽しむ手段である、そしてそれらはこのように仕えなくてはならないため、これらの食物もまた相応しており、それで食物[糧]と呼ばれている。ここから外なるものの中にのみいることの何であり、内なるものの中にいることの何であるかが明白である。本章の内なる歴史的な意義の中にとり扱われているユダヤ、イスラエル民族は(幼く死ぬ者をのぞいては)その大半の者は今までに示したこうした性格をもっているのである、なぜならかれらは、貪欲であって、他の者にもまさって外なるものの中にいるからである。利得と利益をただ金銀のためにのみ愛し、それを得ることに己が生命の唯一の喜びをおいている者は、最も外なる、または最も低いものの中にいるかれらはうるのである、なぜならかれらの愛の目的はたんに地的なものであるからであるが、それに反して何らかの用のために金銀を愛している者はその用に従って自分自身を地的な物の上に引きあげているのである。人間が愛している用そのものがその人間の生命を決定して、それを他のものから区別しているのである、悪い用はその人間を奈落のものとし、善い用はかれを天界のものとするのであるが、実際それは用そのものではなくて、その用に対する愛である、なぜなら人各々の生命はその愛の中に在るからである。

 

 

天界の秘義4464[]

 

 人間はそのいくたの情愛の生命に順応している一種の霊的なスフィア[霊気]に取り囲まれており、天使たちにはこのスフィアは、においのスフィアが地上の最も精妙な感覚に認められるにもまさって認められていることを人間は知ってはいないのである。もし人間の生活がたんに外なる事柄の中にのみ送られるなら、すなわち、隣人に対する憎悪から、その憎悪から生まれてくる復讐と残酷から、姦淫から、自己高揚とそれにふずいした他の者にたいする軽蔑から、秘かな強奪から、貪欲から、詐欺から、ぜいたくから、その他それに類したいくたの悪から発してくる快楽の中に送られたら、そのときはその者を取り囲んでいる霊的なスフィアは、この世で死体、糞、悪臭を放つ食物の屑といったようなものから発してくるにおいのスフィアのような嫌忌すべきものとなるのである。このような生活を送った人間は死後この嫌忌すべきスフィアをたずさえて行くのであり、かれは全くその中にいるため、このような性質をもったスフィアの場所である地獄の中に必然的にいなくてはならないのである(他生のおけるスフィアとそれがどこから発してくるかについては、1048、1053、1316、1504−1519、1695、2401、2489番を参照されたい)。

 

 

天界の秘義4464[]

 

外なる物の中にのみいる者たちはその内なる事柄について言われることを全く意に介しはしないのである。基督教世界から他生に入って来て、わたしと語った者たちからわたしは知ることを許されたのではあるが、大半の基督教徒はこのような不信仰の中にいるのである、なぜなら他生では人間の思いはそれ自身を明らかに示しているため、かれらはそこではその考えたことをかくすことができないし、またその目的として抱いていたものを、すなわち、その愛していたものをかくすこともできないからである、それはそうしたものがかれらのスフィアによりそれ自身を明らかに示すからである。

 

 

天界の秘義4598[2]

 

内的なものに向って進んで行くことの性質の何であるかはこの世ではたれにも明らかではない、しかし他生ではそれは明らかに現れている、なぜならそこではそれは一種の霧から光の中へ進んで行くことであるから、なぜなら外的なもののみ中にいる者らは相対的には霧の中にいて、天使によってはそうしたものの中にいるように見られるに反し、内的なものの中にいる者たちは光の中にいて、従って知恵の中にいるからである、なぜならそこの光は知恵であるからである、そして驚くべきことには、霧の中にいる者らは光の中にいる者たちを光の中にいるものとして見ることはできないが、光の中にいる者たちは霧の中にいる者を霧の中にいるものとして見ることができるのである。ここにとり扱われている主題は主の神的なものが内的なものへ向って進んで行くことであるため、ヤコブはここでは『イスラエル』と呼ばれているが、しかし他の時には、本章の節と最後の節におけるように、『ヤコブ』と呼ばれているのである。