あなたたちは産めよ、増えよ

地に群がり、地に増えよ

(創世記9・7)

 

天界の秘義1015

 

「あなたらは生みなさい。ふえなさい」。

 

これは内的な人における善と真理との増大を意味しており、『生むこと』は善について、『ふえること』は真理について述べられていることは、同じ言葉が用いられている、前の本章の一節に示されたことから明白である。増大は内的な人の中に在ることは以下の記事から姪這うであり、そこには再び『あなたらはふえなさい』と言われているが、こうした繰返しは、もしそれが記されていることとは明確に区別された、何か特別なものを意味していないならば、よけいなものであるため、不必要なものである。このことから、また前に言ったことから、生むこととふえることとはここでは内的な人における諸々の善と真理とについて述べられていることが明白である。内的な人と言ったのは、前に示されたように、主のみのものである天的な霊的なものについては、人間は内なる人であるが、しかし合理的なものについては、人間は内的な、または中間の人であり、内なる人と外なる人との間の媒介的なものであり、善の情愛[善を求める情愛]と記憶の知識については、外なる人であるからである。こうしたものが人間の性質であることは本章の序言に示されたところであるが(978番)、しかしかれが身体の中で生きている間はそのことを知ってはいないのは、かれは身体のいくたの物[事物]の中にいて、そこから内的な物[事柄]が在ることを知りさえもしておらず、ましてそれらの物がこうして明確に区別されて、分離した秩序の中におかれていることを知っていないためである。それでも反省するならその事実はかれが身体から引き出された思考の中にいて、謂わば霊の中に考えている時、かれに全く明白になるであろう。生むことと増大することが内的な、または合理的な人について述べられている理由は、内なる人の働きは内的な人の中に極めて全般的に認められる以外には認められはしないということである。なぜなら内的な人の中には無数の夥しい個々のものが一つの全般的なものとして、事実極めて極端に全般的なものとして目に見えるように示されているからである。その個々のものは如何に無数であるか、その性質は何であるか、それらはいかようにして明確でない、全般的な全体として現れているかは、前に示されたことから明白である(545番)。

 

 

天界の秘義1016

 

 「ゆたかに地に生みなさい、その中にふえなさい」。

 

これは地である外なる人における善と真理との増大を意味しており、『ゆたかに生む』ことは善について、『ふえること』は真理について述べられていることは、今言ったことから明白であり、また『地』の意義が外なる人であることからも明白である。地の意義については本章の一節に言われ、示されたことを参照されたい(983番)。『ゆたかに生みなさい。その中にふえなさい』と言われていることについては、実情は以下のものである、すなわち、何一つ再生した人間の外なる人の中には仁慈から生まれないかぎり、増大はしないのである。すなわち、善と真理とは仁慈から生まれないかぎり、何一つ増大はしないのである。仁慈は草や植物や木を成長させるところの春か夏の頃の熱のようなものである。仁慈がなくては、または霊的な熱がなくては、何一つ成長しないのであり、こうした理由からここに先ず『ゆたかに[おびただしく]地に生みなさい』と言われて、これは仁慈に属した諸善について述べられているが、仁慈により善と真理とが増大するのである。たあれでもどうしてこうしたことが生まれるかを理解することができよう。なぜなら何かの情愛が無いかぎり、何一つ人間の中には増大しないし、ふえもしないからである。なぜなら何かに根をはらせるのみでなく、その何かを増大させるものは情愛の歓喜であり、凡ゆるものは情愛の影響力にかかってるからである。人間はその愛しているものをすすんで学び、留め、いつくしんでおり、かくて情愛に有利なものをことごとく学び、留め、いつくしむのである。有利でないものは、その人間は些かもかえりみないし、無意味なものとみなし、斥けさえもするのである。しかし情愛の如何に増大は応じている。再生した人間のもとでは、その情愛は主により与えられた仁慈から発した善と真理の情愛[善と真理を求める情愛]である。それ故かれは凡て仁慈の情愛に有利な物はことごとく学び、留め、いつくしみ、かくして諸善と諸真理とを確認するのである。これが『ゆたかに地に生みなさい。その中にふえなさい』により意味されている。