ヤコブは豆汁を煮た

創世記25・29

 

創世記25・29−30

 

ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。

 

 

天界の秘義3315

 

29節、30節「ヤコブは豆汁を煮た、エソウは野から来た、かれはつかれていた。エソウはヤコブに言った、どうかわたしにその赤いものを、この赤いものを吸わせてください、わたしはつかれているからです。それでかれはその名をエドムと呼んだ」。『ヤコブはあつものを煮た』は教義的な事柄の混沌としたかたまり[混沌として一かたまりになった教義的な事柄]を意味し、『エソウは野から来た』は生命の善の追求を意味し、『かれは疲れていた』は争闘の状態を意味し、『エソウは野から来た』は生命の善の追求を意味し、『かれは疲れていた』は争闘の状態を意味し、『エソウはヤコブに言った』は、主が自然的なものの善から認識されたことを意味し、『どうかわたしにその赤いものを吸わせてください』は教義的な事柄に対する渇望を意味し、『この赤いもの』は外面的に善であるものを意味し、『わたしは疲れているから』はここでも前のように争闘の状態を意味し、『それでかれはその名をエドムと呼んだ』はそこから発した性質の善の方面を―それに信仰の教義的なものが接合されたのであるが―意味している。

 

 

 

天界の秘義3316

 

「ヤコブは豆汁を煮た」。(創世記25・29)

 

これは混沌としたかたまりとなった教義的な事柄を意味していることは以下から明白である、すなわち、ヤコブの表象は自然的な真理の教義であり(3305番)、かくて自然的な人の中に存在している教義的な事柄であり、『豆汁』の意義はこのようなものの混沌としたかたまりである。『それを煮ること』は蓄積することを意味している。なぜなら原語ではその表現は、恰もかれは『豆汁を豆汁にした[あつものをあつものにした]、すなわち、それを蓄積したと言われているかのうように、豆汁[あつもの]に特有な表現であるからである。善と真理との連結の最初の状態がこの節と以下の節に、本章の終わりに至るまでも記されているものである。

 

 

[2]再生しつつある人間の、または真理が善に連結されつつある人間の最初の状態は、先ずかれの自然的な人の中に、または記憶と呼ばれているその倉庫の中に、真理の教義的な物が何らの秩序も無しに蓄積されているということである。その中にその時在る教義的な事柄は何か消化されていない、合成されてもいない塊りに、一種の混沌としたものにたとえることができよう。しかしこれはそれらのものが秩序づけられる目的のために在るのである、なぜなら何であれ秩序づけられるものはことごとく最初はこうした混乱した状態の中に在るからであって、これがヤコブが煮た、すなわち、蓄積した豆汁により意味されていることである。これらの教義的なものはそのもの自身によっては秩序づけられはしないで、それらのものの中へ流れ入る善により秩序づけられるのであり、善はそれがそれらのものに働きかける量と質とに正確に比例してそれらのものを秩序づけるのである。善がそれ自身にこれらの教義的なものを連結させようとする目的から、先ずその教義的なものを渇望し、欲するとき、その善はそれ自らを真理に対する情愛の外観の下に示すのである。これがエソウがヤコブに『どうかわたしにその赤いものを、この赤いものを吸わせてください』と言ったことにより意味されていることである。

 

 

[3]これらの事柄は文字の意義からは実に縁遠いもののように思われるが、にも拘らずこれらの言葉が人間により読まれて、その文字の意義に応じて人間により把握されるときは、そのときかれのもとにいる天使たちは、豆汁を、或いはヤコブを、或いはエソウを、或いは赤いものを、或いは赤いものを吸うことを些かも全く考えないで、それに代って、このような自然的な観念とは全く相違し、またそこからは縁遠い霊的な観念を抱いて、この霊的な観念にこれらの自然的なものは一瞬に変化してしまうのである。聖言の他の事柄も同じである、例えば人間がパンのことを読むと、天使たちはパンを何ら認めないで、直ぐにパンに代って天的な愛とそれに属している凡ゆるものを、すなわち、主に対する愛にぞくしている凡ゆることがらを認めるのであり、聖言の中にぶどう酒が読まれると、かれらはぶどう酒を認めないで、ぶどう酒に代って霊的な愛と、それに、すなわち、隣人に対する愛にぞくしている凡ゆるものを認めるのである。同様に豆汁または豆が読まれるとき、かれらは豆汁または豆を認めないで、未だ善と連結していない教義的な事柄を認め、かくてそれらの物の混沌としたかたまりを認めるのである。このことは天使的な思考と認識の性質と特質とを示しており、またそれが人間の思考と認識からいかほど縁遠いものであるかを示している。もし人間も聖さんに列していて、パンの代わりに主に対する愛を認め、ぶどう酒に代わって隣人に対する愛を認めるときのように、聖い状態の中にいるとき、同じように考えるなら、かれも天使たちの思考と認識に似た思考と認識の中にいるだろうし、そのとき天使たちはかれのもとへ更に近づいてきて、ついにはその思考を結びつかせることができるが、しかしそれは単にその人間がそれと同時に善の中にいるかぎり行われるにすぎないのである。

 

 

[4]『豆汁』または『豆』は混沌としたかたまりを意味していることはまた列王記の書に予言者たちの息子たっとエリシャとのついて言われていることからもまた明白である―

 

 エリシャはギルガルに帰ったが、その地に飢饉が起った、預言者たちの息子たちはかれの前に坐っていた、かれはその若者に言った、大鍋をかけ、予言者たちの息子たちのために豆汁を煮なさい。それで一人があおものを集めるために野に行った。かれは野のかづらを見出し、そこから野瓜を衣一杯集め、来て、それを豆汁の鍋にきり込んだ、かれらは知らなかったからである、かれらは食べようとして、その人たちに盛って、出した、するとその豆汁を食べている中に、かれらは叫んで、言った、ああ神の人よ、鍋には死が在る!と。かれらは食うことができなかった、かれは言った、あら粉を持ってきなさい、と。かれはそれを鍋に入れて、言った、人々に盛って出しなさい。かれらは食べたが、鍋には悪い言葉はなかった(列王記4・38−41)。

 

 内意ではこれらの言葉は、それらがその文字の意義で意味しているものとは全く異なった事柄を意味している。『地の飢饉』は善と真理とにかかわる知識が欠けていることを意味し(1460番)、『予言者の息子たち』は教える者たちを意味し(2534番)、『豆汁』は部類わけしていない[雑然とした]記憶知のかたまりを意味し、『あら粉』は善から発している真理を、または天的なものから発している霊的なもんを意味し(2177番)、かくてエリシャが鍋にあら粉を入れて、そのときその中に悪いものがなくなったことは、混沌としたかたまりが主の聖言から発している霊的な真理により匡正されたことを意味している、なぜならエリシャは主を聖言の方面で表象したからである(2762番)。こうした霊的な意義を離れては、豆汁とその中にあら粉によりおこった変化とにかかわる物語は最も聖い聖言に記されるに価しなかったであろう。こうした奇蹟が行なわれたのはこのような事柄を表象するためであったのであり、そうしたことはまた聖言の他の奇蹟にも言われるのであって、その凡てのものはその内にかくされている神的な事柄をもっているのである。

 

 

天界の秘義3317

 

「エソウは野から来た」。これは生命の善を追求することを意味していることは以下から明白である、すなわち、エソウの表象は自然的な真理の生命であり(そのことについては3300番を参照)、『野から来ること』の意義は善を追及することである、なぜなら野[畠]に物思いにふけることは、『野[畠]』は教会の善を意味しているため(2971番)、善の中で熟考することを意味するからである(3196番)。

 

 

天界の秘義3318

 

「かれは疲れていた」。これは争闘の状態を意味していることは、『疲れる』または『つかれていること』の意義から明白であり、それは争闘の後の状態であり、ここでは主題が自然的な人の中に善が真理と連結することであるため、争闘の状態である。ここの『疲れる』は争闘の状態を意味していることは、その連続した事柄の内意からでなくては、とくに善は自然的な人の中に争闘なしには、またはそれと同一のことではあるが、試練なしには真理に連結されることはできないということを考察しなくては明らかになることはできないのである。このかんの実情は人間についてはいかようになっているかを明らかにするため、それをかんたんに述べてみよう。

 

 

天界の秘義3318[2]

 

 人間は主から生命を受けるところの器官または容器以外の何ものでもない、なぜなら人間は人間自身からでは生きないからである(290、1954、2021、2536、2706、2886−3001番)。主から人間のもとに流れ入ってくる生命は主の神的な愛[神の愛]から発している。この愛は、またはそこから派生している生命は、人間の合理的なものの中に在る容器に、またその自然的なものの中に在る容器に流れ入って、その容器にそれ自身を適用させるのである。人間がその中へ生まれてきている遺伝悪とまた人間が得る実際的な悪との結果、これらの容器は流れ入ってくる生命に対してはかれの内では反対の位置に在るが、それでもその流れ入ってくる生命はそれを受けるようにその容器を処理することができるかぎり、その容器をそのように処理するのである。合理的な人と自然的な人におけるこれらの容器は真理と呼ばれるものであるが、しかしこれらの容器はこれらのもの自身においてはこれらのものの形のいくたの多様なものの認識にすぎないのであり、また状態のいくたの変化の認識に過ぎないのであり、それに応じて[その状態のいくたの変化に応じて]これらのいくたの多様なものが色々な方法で発生してくるが、それは極めて微妙な原質の中に、表現を絶した方法により行われているのである(2487番)。善それ自身は、主から生命を持っており、または生命であるが、それが流れ入って、処理するところのものである。

 

 

天界の秘義3318[3]

 

 それ故これらの容器は、形の方面では変化されねばならないものであって、前に言ったように、生命の方面では反対の位置と方向の中に在るときは、それらのものはその生命に順応した位置に帰されるか、またはその生命に服従するようにされなくてはならないことが明白である。このことは人間がその中へ生まれているところの、またかれがかれ自身を陥れてしまったところの状態の中にかれがいる限り、決して遂行されることはできないのである、なぜならその容器は従順ではなくて、生命がそれに応じて活動する天界の秩序に反抗して頑強に抵抗し、また自分自身を頑にするからである、なぜならそれらの容器を動かし、またそれらの容器がそれに順応している善は自己と世を求める愛のものであり、その善は、その中に在るところの粗悪な熱から、それらの容器にこのような特質をもたせるからである、それ故それらのものは柔軟なものとなり、主の愛の生命の何らかのものを受けるのに適合したものとなることができる以前に、柔らげられなくてはならないのである。この柔らげられることは試練以外のいかような手段によっても遂行されはしないのである。なぜなら試練は、自己への愛にぞくし、また自己に比較して他の者に対し覚える軽蔑の念にぞくしているところの凡てのものを遠ざけ、従って自負心にぞくし、また自負心のための憎悪と復讐とにぞくしている凡てのものを遠ざけるからである。それでその容器が試練により多少なりと和らげられ、征服されると、その容器は、人間のもとに絶えず流れ入っているところの、主の愛の生命に服従し、またそれに従順になり始めるのである。

 

 

天界の秘義3318[4]

 

 ここからそのとき善は真理と連結され始めるのであり、それは先ず合理的な人の中に、後には自然的な人の中に行われるのである、なぜなら前に言ったように、真理は絶えず変化しつつあるいくたの状態に応じた形のいくたの多様なものの認識以外の何ものでもなくこれらの認識は流れ入ってくる生命から発しているからである。これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、すなわち、新しくされる理由である、その後かれは他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。これらのいくたの考察から、試練がいかような用を増進するかを今や認めることができよう、すなわち、主から発している善が単に流れ入るのみでなく、そのいくたの容器を処理して、服従させ、かくしてその善自身をその容器に連結させるためである。真理は善を受けることのできる容器であることは前に認めることができよう(1496、1832、1900、2063、2261、2269番)。それでここでは、主題は自然的な人における善と真理との連結であり、連結の最初のものは試練の争闘である争闘によって起るため、『かれは疲れていた』により争闘の状態が意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義3318[5]

 

 しかし主については―主は最高の意義においてここにとり扱われておられるが―主はその最も痛ましい試練の争闘によって御自身の中の凡ゆるものを神的秩序[神の秩序]に帰せしめられ、かくて主が母から取得された人間的なものは何一つ些かも残らなくなったのであり(1444、1573、2159、2574、2649、3036番)、それで主は他の人間のように新しくされたもうたのではなくて、全く神的なものになされたもうたのである。なぜなら再生により新しくされた人間は依然その者自身の中に悪への傾向を、否、悪そのものをすら保有しているが、しかし主の愛の生命の流入により悪から遠ざけられており、しかもそれは極めて偉大な力によって行われているが、これに反し主は母から御自身に遺伝した悪をことごとく徹底的に放逐され、御自身を、そのいくたの容器の方面においてすら、すなわち、幾多の真理の方面においてすら神的なものになされたからである。これが聖言の中に『栄化』と呼ばれているものである。

 

 

天界の秘義3322

 

聖言にはエソウが、またエドムがしばしば言われており、『エソウ』により、真理の教義的な事柄が自然的な人の善にこのようにして連結されない中のその善が意味され、また、流入から合理的なものから発している生命の善が意味されているが、『エドム』によっては真理の教義的な事柄を接合されたところの自然的なものの善が意味されている。しかしその対立した意義では、『エソウ』はいくたの誤謬がこの自己への愛にこのようにして接合していない中のその悪を意味しているのである。再三示したように、聖言では大半の名前にもまた対立した意義があるが、それは教会の中で善であり真であったその同じものが時の経過につれて色々と不善化されて悪い誤ったものへと腐敗してしまうからである。