ソドムのための執成し
創世記18・16
天界の秘義2140
第三に、本章(創世記18章)は人類が自己愛に甚だしく浸透され、そこから悪い誤ったものから、他の者を支配しようとする欲念に浸透されてしまったため、主は人間のために悲しまれ、心を痛められたことをとり扱っており、主はかれらのためにその状態において執成しをされて、そのもとに善と真理とが宿っている者が救われるようにされたのであり、こうした者のたれであるかが順序を追って列挙されているのである。
天界の秘義2141
主は人類について、それが悪と誤謬の中にいたことを認識された、すなわち、『ソドム』は自己愛であり、またそこから派生してくるところの、悪いものから主権を行使しようとする欲念であり、『ゴモラ』は誤ったものから主権を行使しようとする欲念である(創世記18・16、20節)。救いはことごとく主によっており、また主から発しているため、そのことがその状態における主から隠されることはできなかった(17節から19節まで)、すなわち、かれらはその悪がその頂点に達したとき、報復を受けねばならなかったのである(20、21節)。主はこのことを認識されたとき(22節)、かれらのために執成されたのである。先ず真理がそのもとに宿っていて、しかもその真理が善に満ちている者たちのために執成されたのであり、これらの者は『五十人』により意味されている(23節から26節まで)。また主は善は前の者たちの場合ほど多くはないが、それでもその善が真理に直結している者たちのために執成されたのであり、これらの者たちは『四十五人』により意味されている(27節、28節)、次に主は試練におかれている者たちのために執成されたのであり、これらの者は『四十人』により意味されている(29節)、同じく主は悪に多少反抗して戦っている者たちのために執成されたのであり、これらの者は『三十人』により意味されている(30節)、後に主は他の何らかの源泉から発した善の情愛の状態がそのもとにある者たちのために執成されたのであり(31節)、これらの者は『二十人』により意味されている、最後に主は真理の情愛がそのもとにある者たちのために執成されたのであり、これらの者は『十人』により意味されている(32節)。これらのことが遂行されると、主はその以前の認識の状態に帰られたのである(33節)。これらが本章の内意に含まれているアルカナであるが、しかしそれは文字からは明白ではない。