存在・存続

 

1.存続は不断の発生

2.世界の一切の物は神的なものから発生している

3.凡ゆる物はその結婚またはその結合をもっており、それがなくてはそれは到底存在することはできない

4.エッセ(存在)の在るところには、エキジステレ(存在から発した形)が在り、一は他を離れてありえない

5.用が形を生み出す

6.永遠

7.天界との相応

8.天界からの流入

9.人間を作っている二つのもの、すなわち、存在と発生

10.植物界

11.巨大人との相応がなくては何一つ存続しない

 

 

 

1.存続は不断の発生

 

天界の秘義3483

 

学者は存続は絶えず発生することであることを知ってはいるが、依然、自然は主の神的なものから最初存在するにいたったように、その神的なものから絶えず存続していると言うことは誤謬の情愛に反し、かくて学問上の名声にも有害なのである。それで各々のまた凡ゆる物は神的なものから存続し、すなわち絶えず発生しており、そこから派生している各々のまた凡ゆる物も、それらの物が存在するようになった手段であるそれらのものを必然的に表象しないわけにはいかないからには、目に見える宇宙は主の王国を表象する劇場以外の何ものでもなく、またこの王国も主を表象する劇場であることが推論されるのである。

 

 

天界の秘義4523[3]

 

このことを知る者はまた、何であれ、世界とその自然の中に存在している物はことごとくそれ自身から発生しないで、それ自身よりも先に存在しているものから発生しており、この先在しているものもそれ自身から発生することはできないで、それ自身よりも先に存在しているものから発生しており、それがだかのぼって「最初のもの」にさえもたっし、その「最初のもの」からそれに後続している物が秩序をもって発生していることを知ることができよう。そしてそれらのものはこのものから発生しているため、それらのものはまたそのものから存続しているのである。なぜなら存続することは不断に発生していることであるから。ここから自然のすべての物は全般的にも個別的にも、その最後の物にいたるまでも、最初のものから発生しているのみでなく、またその最初のものから存続していることが生まれてくるのである、なぜならそれらのものが最初のものから不断に発生していないかぎり、また最初のものから、かくて最初のものと絶えず関連づけられていないかぎり、それらのものは一瞬にして粉々に砕かれて、死滅してしまうからである。

 

 

天界の秘義6040

 

何物もそれ自身からは発生しないで、それ自身よりも先に在るものから発生しており、かくて最終的には凡ゆる物は「最初のもの」、すなわち、それ自身においてエッセ(存在)とエキジステレ(存在の形)であるものから発生しているのである。そしてまたその同一のものから凡ゆる物は存続しているのである。なぜなら発生に言われることは存続にも言われるからである。なぜなら存続することは絶えず発生しることであるからである。

 

 

天界の秘義9847

 

なぜなら事物はそれが発生してくる源泉と同じ源泉から存続するからである、それは存続は不断の発生であるためである。

 

 

真の基督教46

 

何故なら、生存は不断の存在であるように、維持は不断の創造であるから。神的愛は永遠より永遠に亘り同一である、それは世を創造し給うた際も、世を維持し給う現在も同一であり、また将来も同一である。

 

 

2.世界の一切の物は神的なものから発生している

 

天界の秘義726

 

 存在もまた存在しなくなる物については述べられることができないのであり、ただ決して存在しなくなりはしない物にのみ述べられるのである。かくて生命と存在は主またはエホバに属した事柄の中にのみ存在しているが、それは永遠に存在することと生きていることはすべて主のみから発しているためである。永遠の生命により永遠の幸福が意味されている、このことについては前に言われ、示されたことを参照されたい(290番)。

 

 

天界の秘義775

 

 もし霊的なものが自然的なものから万が一にも後退してしまうならば、自然的なものは無くなるであろう。凡ゆる物の起原は以下のようになっている、すなわち、すべての物は、全般的にも、個別的にも、主から発している。主から天的なものが発し、主から天的なものを通して霊的なものが発し、霊的なものを通して自然的なものが発し、自然的なものを通して形体的なものと感覚的なものとが発しているのである。そして、それらは凡てこのようにして主から発しているように、また主から存続している、なぜなら良く知られているように、存続は絶えず存在するようになることであるから。自然を拝し、そこから事物の起原を引き出してくる者のように、事物が存在し、生起するに至ることについてこれとは異なった考えを抱いている者らは、森の野獣の幻想でもかれらよりは遥かに健全であると言ってもよいほどにも狂った原理に立っているのである。自分は知恵では他の者に勝っていると自分自身に思われている極めて多くの者はこうした者である。

 

 

天界の秘義3938[]

 

 発生することもまた主について述べられているが、しかしそれは主が世におられて、そこで神的なものを着けられたときにのみ述べられるのである。しかし主が神的な存在になられてからは、発生することはもはや主については、主から発出している何らかのものとしてのみしか述べられることはできないのである。主から発出しているものは主の中に発生しているものとして現れているものであるが、それでもそれは主の中に存在しているのではなく、主から発しており、人間と霊と天使とを発生させるのであり、すなわち、生かすのである。人間と霊と天使の中には発生することは生きることであり、かれが生きることは永遠の幸福である。永遠の生命の幸福は、それにその最高の意義で主の神的な存在から発している永遠が相応しているものである。永遠の生命の幸福が『祝福』によりその内意に意味されているものであり、情愛の歓喜によりその外意に意味されているものであることは解説の要もなく明らかである。

 

 

天界の秘義4524

 

 さて世界とその自然の中の事物の一切のものは、その物自身よりも先に存在している物から発生し、絶えず発生しており、すなわち、存続しているため、それらの物は霊界と呼ばれるところの、自然の上方に存在している世界から発生し、また存続していることが生まれてくるのであり、そしてそれらのものが存続し、または絶えず発生するためにはかの霊界と絶えず関連づけられていることがなければならないため、自然界の中に存在し、従って人間の中に存在しているところのさらに純粋な、またさらに内的なものはかの世界から発しており、またその純粋な、内的なものはその流入を受けることができるような形であることが生まれてくるのである。そして自然の中には熱と光の唯一の源泉が在るように、生命の唯一可能な源泉が在るため、生命の一切のものは生命の最初のものであられる主から発していることが明白である。それがそうであるため、霊界に存在しているものの一切は主に相応しており、従って人間の中に存在している物の一切も主に相応していることが生まれてくるのである、なぜなら人間は最小の形における霊界であるからである。ここからまた霊的な人間は主の映像となっている。

 

 

天界の秘義5711

 

 病の相応がとり扱われねばならないため、人間の病は凡て霊界と相応していることを知らなくてはならない、なぜなら何であれ自然全体の中で霊界と相応していないものは凡て、その存在する源泉となり、従って存続する源泉となっている原因を持たないため、存在することはできないからである。自然界に存在する物は結果以外の何ものでもなく、その原因は霊界に在り、その原因である目的は内的な天界に在るのである。原因がなくなると結果もなくなるため、結果もまた、原因が絶えずその中に存在しないかぎり、存続することはできないのである。結果はそれ自身において観察されるなら、それは原因以外のものではなく、その原因を低い領域における原因として働かせるために外的にそうしたものをまとっているのである。結果の原因に対する関係に原因と目的との間の関係も類似しており、原因もまた目的であるその原因から存在しないかぎり、それは原因ではない、なぜなら目的のない原因は秩序をもたない原因であり、秩序のない所には何ごとも行われないからである。このことから今や以下のことが明らかである、すなわち、結果はそれ自身において観察されるなら原因であり、原因はそれ自身において観察されるなら目的であり、善の目的は天界に在って、主から発しており、従って結果は、原因がその中に、しかも絶えずその中に存在しないかぎり結果ではなく、原因は目的がその中に、しかも絶えず存在しないかぎり原因ではなく、目的は主から発出している神的なものがその中に存在しないかぎり善の目的ではないのである。ここからまた世界の一切の物は神的なものから発生しているため、神的なものから発生しつづけていることも明らかである。

 

 

結婚愛222(13)

 

 「宇宙の一切の物に、実にその究極的な物にさえ天界を通して主から流入している結婚のスフィア[霊気]が在る」。愛と知恵は、またはそれと同一のことではあるが、善と真理とは主から発していることは前のそのことをとり扱った章に示した。この二つは結婚しつつ絶えず主から発出している、それはその二つは主御自身であり、また凡ゆる物は主から発しており、主から発している物は宇宙に満ちているためである、なぜならこのことがないなら存在している物は一つとして存続はしないからである、いくたのスフィア[霊気]が主から発出している、例えば創造された宇宙を維持するスフィア、悪と誤謬に対し善と真理を守るスフィア、改良し、再生させるスフィア、無垢と平安のスフィア、慈悲と恩寵のスフィア、その他さらに多くのものが発出している。しかし凡ての中で最も普遍的なものは結婚のスフィアである、なぜならこれはまた繁殖させるスフィアであり、かくて継続的な出生により[絶えず生み出すことにより]創造された宇宙を維持する無上の卓越したスフィアであるからである。

 

 

 

 

3.凡ゆる物はその結婚またはその結合をもっており、それがなくてはそれは到底存在することはできない

 

 

天界の秘義747

 

 『二つづつ』は相応しているものを意味していることは、たれでもそれらが対になっていることから認めることができよう。それらは善と真理が、悪と誤謬が互に他に相応しているように、互に他に相応していない限り、対になることはできない。なぜなら理解は意志と結婚しているために、または理解のいくたのものが意志のいくたのものと結婚しているために、真理は善と、また悪は誤謬と結婚しているように、または結合しているように、凡ゆる物の中には結婚に、または結合に類似したものが在るからである。そして実に凡ゆる物はその結婚またはその結合をもっており、それがなくてはそれは到底存在することはできないのである。

 

 

 

 

4.エッセ(存在)の在るところには、エキジステレ(存在から発した形)が在り、一は他を離れてありえない

 

 

神の愛と知恵14

 

エッセ(存在)の在るところには、エキジステレ(存在から発した形)が在り、一は他を離れてありえない。なぜならエッセはエキジステレにより存在し、それを離れては存在しないから。

 

 

 

神の愛と知恵14

 

霊魂は身体がなくても存在することが出来、考えもし、また賢明になることも出来るというのは妄想から発した過ちである。なぜなら人間各々の霊魂は世で携えてまわる物質的な被覆を棄て去った後は霊的な身体をもって存在するからである。

 

5.用が形を生み出す

 

 

天界の秘義4223[2]

 

このことは身体の有機的な形が発生する以前に用が存在し、用が形を生み出して、それをそれ自身に適応させたのであって、その反対は行なわれてはいないことを示している。しかしその形が生み出され、器官が適応させられると、用がそれらのものから発出するのであり、そのときはその形または器官が用よりも先に存在しているかのように見えるが、それでも事実はそうではないのである。なぜなら用は主から流れ入っており、しかもそれは天界を通して秩序に応じて行われ、また天界が主により定められている形に応じて行われ、かくて相応に従って行なわれているのである。このようにして人間は実に存在するようになり、またこのようにして実に生存しているのである。そしてここからまた人間が全般的なものの方面でも個別的なものの方面でも諸天界に相応している理由が明らかである。

 

 

天界の秘義4926

 

この主題については直ぐ前に示されたことを参照されたい(4925番)、すなわち、善は事実上長子であるが、真理は外観的には長子であるということである。このことはさらに人間の身体の中のいくたの用と肢体から説明することができよう。肢体と器官とは先在的なものであって、そのいくたの用はそれにつづいているかのように見えるのである、なぜなら前のものが先ず目に示され、またその用の前に知られるからである。にも拘らず用が肢体と器官よりも先在しており、この後のものは用から発し、それで用に従って形作られており、いな、用そのものがそれらのものを形作り、用自身に適応させているのである。それがそうでないかぎり、人間における一切の物は決してかくも調和して共力し、一つのものとはならないであろう。善と真理においても同じである、すなわち、真理が先在しているかのように見えるが、しかしそれは善である、なぜなら善が諸真理を形作って、善自身に諸真理を適応させるからである、それでいくたの真理はそれら自身において観察されるなら、それらは形作られた善、または善の形以外の何ものでもないのである。善に対するいくたの真理の関係はまた用に対する身体の中のいくたの内臓と繊維の関係に似ており、善はそれ自身において観察されるなら用以外の何ものでもないのである。

 

 

 

 

6.永遠

 

 

天界の秘義729

 

 主にあっては、従って天使的天界にあっては、物事が現在そうであるか、または将来そうであるかは何れも同じことである、すなわち来ることになっているものは現在あるのであり、または行われるはずのものは行われるのである。

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P33

 

 さっき私は、“母の霊魂の永遠の美”と言いましたね。私は御言葉ですから、言葉を間違わずに使えます。私は“不滅の”とは言わず、“永遠の”と言いました。私は目的なくそう言ったのではありません。不滅(不死)とは生まれた後に死なないものについて言います。したがって、義人の霊魂は天国で不滅であり、罪人の霊魂は地獄で不滅です。なぜなら霊魂は、一度創造されたなら最後、恩寵は失っても死ぬことはないからです。しかし、霊魂は生命を持っていますし、神がそれをお考えになった瞬間から存在し、[霊魂は神の思惟のなかに存在しています]。それをお創りになるのは神の思惟です。私の母の霊魂は永遠の昔から神によって考えられました。したがって、そこに神が喜びと慰めを得るためにあらゆる完全さを注がれたその霊魂は、その美しさにおいて[神の思惟のなかで]永遠なのです。

 あなたを予見していたゆえにあなたの預言者と言ってもいい私たちの祖先、ソロモンの書には書かれています。『神はその御業の初めに、私を造られた。創造に先立って、まさに太初から、悠久のいにしえから、私は堅固に据えられていた、始まりから、大地が存在する以前から・・・』[箴言8・22−31]。

 

 そうです、母さん、計り知れない方、崇高な方、純潔無垢の方、創造されずに存在する方である神はあなたを宿し、いとも甘美な荷物としてあなたを伴い、彼のうちで動き回るあなたを感じて歓喜し、彼に微笑みかけるあなたの微笑みで森羅万象をお創りになったのです!世にあなたを与えるために苦しんで産んだあなた、童貞であるために至高の<純潔>なる方から生まれたいとも優美な霊魂“森羅万象の完成”、“楽園の光”、神はあなたをごらんになって原罪を赦すことがお出来になった神の助言者。なぜならあなた、あなたはお一人、ただ一人で、愛することを知らない全人類を一括するほど愛することを知っているからです。あなたのうちに神の赦しがある! あなたのうちに神の治癒薬があり、人間が神に負わせた傷の上で、あなたは永遠なる御者を愛撫します!あなたのうちに世の救いがあるのです、ああ、受肉された愛なる神の、また、容認された贖罪主の御母よ! おお! わが母の霊魂よ! 神の愛と溶け合った私は、わがうちにあなたを見ていました、おお、わが母の霊魂よ!・・・そして、あなたの輝き、あなたの祈り、自分があなたのうちに宿ったと考えることは、悲しみと残酷な体験―すなわち、完全さの極みである神にとって、堕落した世界がどのようなものかを体験すること―という運命を担った私を、常にたえまなく慰めてくれました。ありがとう、母さん! 私が[天から]やって来たとき、すでに私はあなたの慰撫で満たされていました、私はあなたお一人を、あなたの香り、あなたの歌、あなたの愛だけを感じつつ天から降って来たのです・・・喜び、わが喜びよ!

 

 

 

箴言8・22−31

 

主は、その道の初めにわたしを造られた。

いにしえの御業になお、先立って。

 永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。

わたしは生み出されていた

深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが

わたしは生み出されていた。

大地も野も、地上の最初の塵も

まだ造られていなかった。

 

わたしはそこにいた

主が天をその位置に備え

深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ

深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め

水が岸を越えないようにし

大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり

日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。

 

 

 

 

7.天界との相応

 

 

天界の秘義3628

 

 この主題についてわたしは多くの経験から教えられたのであり、実に以下のことも教えられもしたのである、すなわち、人間の心に、すなわちその思考と情愛とに属している[関係している]事柄は、主から発して天界のものである霊的な天的な事柄に相応しているのみでなく、人間全体が全般的にも、また個別的にも何であれ人間の中に在るものもことごとくその霊的な天的な事柄に相応していて、実に最小の部分でも、また部分を構成している最小のものでもそれに相応していないものは一つとしてないほどにもなっており、また人間はそこから存在し、絶えず存続しており、さらに人間が天界にこのように相応し、天界を通して主に相応していないかぎり、かくて人間自身よりも先在しているものに相応し、先在的な物を通して最初の者[神]に相応していないかぎり、かれは一瞬すらも存続しないで、解体して無になってしまうのである。

 

 

 

 

8.天界からの流入

 

 

天界の秘義3648

 

 主から天界を通して、植物界の物にもまた、例えば凡ゆる種類の木の中へ、それらが実を結ぶことへ、色々な種類の植物とそれらが増大することへ流入が注がれている。内部に在る主から発している霊的な原理が種子の中に在るところのその始原的な形に働きかけない限り、それらは決してかくも驚嘆すべき方法と継続性とをもって生え、また成長はしないのであり、その内に在る形は生命のいかようなものも受け入れはしないといったものである。その形がその形の種類と種族とを繁殖させ、かくていわば永遠に生き、また宇宙を満たそうと絶えず努力しており、この努力が種子の中に宿っているという事実から明白であるように、その形が永遠なものと無限なものとの映像を己が中に持っているのはこの流入から発しているのである。しかし人間は凡てこれらの驚くべき事柄をたんなる自然に帰し、霊界から発しているいかような流入をも心では否定しているため、それを信じもしないが、それでもかれらは何物もそれが発生してきた源泉であるものを通さなくては存続することはできないことを、すなわち、存続は絶えず発生していることであり、またはそれと同一のことではあるが、生み出されることは絶えず創造されていることであることを知ろうと欲するなら知ることができるのである。ここから自然全体は主の王国を表象している劇場であることを前に見ることができよう(3483番)。しかしこの主題についてもまた、植物界と巨大人との相応についても、主の神的慈悲の下に他の所に若干述べることにしよう。

 

 

 

天界の秘義4322

 

 現今たれが、人間は精子と卵子とから自然的に存在するようになり、精子の中には最初の創造から、それ自身を、先ず卵子の中に、次に子宮内に、後にはそれ自身から、そのような形に生み出す能力があり、物を生み出すものはもはや神的なものではないと信じないであろうか。それがそのように信じられている理由は、たれ一人天界から(すなわち、主から天界を通して)何らかの流入が存在することを知っていないということであり、しかもそのことはかれらが天界が在ることを知ろうとは欲しもしないためである。なぜなら学者らはその私的な集会では明らさまに互に地獄が在るか否かと、かくて天界が在るか否かと論じているからである。そしてかれらは天界については疑いを持っているため、主から天界を通して流入が在ることを第一原理として受けることができないのであるが、にも拘らず、その流入は地の三物界に存在する凡ゆる物を(とくに動物界における、個別的には人間における凡ゆる物を)生み出して、それらのものをその用に従って結合し、形作っているのである。ここからかれらはまた天界と人間との間には何らかの相応が存在していることを知ることもできないし、ましてそれは、人間の中のそれぞれのものはことごとく、いな、単一のものそのものさえもその源泉から発生しており、またそこから存続しているといった性質をもっていることを知ることはできないのである、なぜなら存続は不断に発生することであり、従って関連づけ、形づけて維持することであるからである。

 

 

 

 

9.人間を作っている二つのもの、すなわち、存在と発生

 

 

天界の秘義3938[]

 

空間に相応している状態は存在の方面の状態であり、時間に相応している状態は発生の方面の状態である(2625番)。なぜなら人間を作っている二つのものが、すなわち、存在と発生とが存在するからである。

 

 

 

 

10.植物界

 

 

天界の秘義5116[2]

 

神的なものが絶えず流入されないかぎり、このような努力は植物界の凡ゆる物の中には決して存在することはできなかったであろう、なぜなら流入から努力が生まれ、努力から精力が生まれ、精力から結果が生まれるからである。

 

 

 

天界の秘義5116[3]

 

凡ゆる物を自然に帰している者らは、このような物は果実と種子とにその最初の創造のさいに与えられたのであり、そこから受け入れられた精力からそれらのものはその後このような活動へおのずから推進させられているのであると言うが、しかしかれらは存続は絶えず存在するようになることであることを、または同一のことではあるが、繁殖は不断の創造であることを考えはしないのであり、また、結果は原因の連続であり、原因が停止するとき、結果もまた停止し、従って原因が絶えず流入しないなら、結果はことごとく、たちまち死滅することを考えもしないのであり、また後在的なものが存在するためには先在的なものは絶えず後在的なものの中に存在しなくてはならないため、凡ゆる物の最初のものに関連していないものは、従って神的なものに関連していないものは、たちまち絶滅してしまうことを考えもしないのである。

 

 

 

 

11.巨大人との相応がなくては何一つ存続しない

 

 

天界の秘義5377

 

 前章の終りにとり扱われた主題は身体の内臓の若干のもの、すなわち、肝臓、膵臓、胃、その他若干のものの巨大人との相応であった。今は腹膜、腎臓、尿管、膀胱、または内臓の巨大人との相応を主題として続けよう、なぜなら何であれ人間の中にあるものはことごとく、外なる人の中に在るものも、内なる人の中に在るものもともに巨大人との相応を持っているからである。巨大人との(すなわち、天界との、またはそれと同一のことではあるが、霊界との)相応がなくては何一つ、そのもの自身よりも先に存在しているものと何ら関連をもたなくなり、従って最初のもの、すなわち、主とも関連も持たなくなるという理由から、決して存在するようになって、存続はしないのである。関連していないものは、かくて独立しているものは一瞬も存続することはできないのである、なぜならそれが存続することは、存続は絶えず存在するようになることであるため、存在のことごとくが発している源泉と関連をもち、それに依存していることから発しているからである。

 

 

 

天界の秘義5377[2]

 

 ここから人間の中のすべての物は全般的にも個別的にも相応しているのみでなく、宇宙の一切の物も相応しているのである。太陽そのものが相応しており、月もまた相応している。なぜなら天界では主は太陽であられ、また月であられるからである。太陽の焔と熱、またその光も相応している、なぜなら焔と熱との相応しているものは全人類に対する主の愛であり、光の相応しているものは神的真理であるからである。星そのものも相応しており、天界の社会とその住居とがその星が相応しているものである、それらは星の中に存在しているということではなく、類似した秩序をもっているということである。何であれ太陽の下に現れている物はすべて、例えば動物界の一切の物は、また植物界の一切の物は相応しており、霊界から一切のものの中へ注がれる流入がないかぎり、それらは忽ち沈んで、枯れしぼんでしまうであろう。このことをわたしは多くの経験により知ることができたのである、なぜならわたしは霊界のいかような物に動物界の多くの物が、また植物界のさらに多くの物が相応しているかを示されたのであり、また流入がないならそれらは決して存続しないことも示されたからである、なぜなら先在しているものが取り去られると、後在しているものは必然的に倒れるからであり、それは先在しているものが後在しているものから分離する場合にも言われるのである。人間はとくに天界と相応し、また天界と通して主と相応しているため、人間は他生では天界の光の中ではその相応の性質に従って現れている。そこから天使たちは表現を絶した輝きと美しさをもって現れているが、奈落の者らは言うに言われぬ黒さと奇形とをもって現れているのである。