その他  

 

 

1.生命の書

2.栄光

3.人間

4.像―霊的な人―光の子・友、似た形―天的な人―神の子、

5.霊

7.人性のヴェール    

8.審判

9.スパイ

10.代の終わり

11.厩は洞穴だった            

12.切り株のように

13.鈴木大拙博士

14.支配する

16.牢名主

17.告解・赦しの秘跡

18.不幸

19.通俗作家

20.義人は誓いをしない

21.T(タウ)の形

22.洪水

23.王たちの肉を食らい(黙示録19章、エゼキエル書39章)

24.存続は不断の発生

25.見張り人[ものみ]

26.香料

27.貴族

28.さまよう

33.メジュゴリエ 

40.自由の神           

46.私たち・一緒

54.空気 

55.自分の意見を放棄  .             

61.詐欺漢と偽善者         

66.主が奇跡を行なわれる際に聞かれた理由

81.相応の科学

83.祭り

84.たねを入れない物の祭り

93.魔術 

94.箕

106.連り

117.くじけない

118.割合

119.昔のホームページ

 

 

1.生命の書

ルカ10・20

 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

 

フィリピ4・3

この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。

 

黙示録20・12

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P227

私は、あまりにも絶対的であってはいけない、と言いたい。なぜなら主の天使たちが、人間の言葉を聞いて、それを永遠の本にしるす。いつの日か“おまえたちが裁いたようにそのとおりになればよい”と言われたらどんなに困るだろう。また私は、人間がサタンのせいで非常に弱いものであるとご存じの神が私を送られたのは、人間が後悔するすべての罪をゆるしたいからです。

 

2.栄光

真の基督教780

「栄光」というと、神の真理が満ちあふれていることを意味します。

 

3.人間

啓示による黙示録解説243

聖書の『人間』により知恵が意味されているのは、人間は主から知恵を受けて、天使となるように生まれており、それでたれでも賢明になるに比例して人間となるためである。

(中略)

他に多くの所があって、そこでは人間により賢明な者が意味され、抽象的な意義では、知恵が意味されている。

 

啓示による黙示録解説609

「なぜならそれは人間の数字であるから」(黙示録13・18)は、聖言の、引いては教会の性質を意味している。『人間』により知恵と理知とが意味され(243番)、ここでは聖言から発している知恵と理知とが意味され、かくてまた教会の人間における知恵と理知の方面の聖言が意味されている。教会そのものも同じように主の前には人間として現われ、そこから教会の人間は、その霊の方面では、その者の中に在る聖言から発した教会の性質に従って人間として天界で現れている。(中略)

 

聖言から発している教会の性質もまた『人間』により意味されている(920番、その他)。

 

4.像―霊的な人―光の子・友、似た形―天的な人―神の子、

天界の秘義51

 

 

5.霊

天界の秘義9818

『霊』という語は聖言の多くの記事の中に用いられており、それが人間について言われているときは、その『霊』によりかれの知的な部分に印刻されている善と真理とが意味され、従ってその部分の生命が意味されている。

 

 

7.人性のヴェール

わたしは、地上で生活していたとき、イエズスのうちに神をみていました。神がこわれやすい弱い人性のヴェールにかくれておられたにしても、時間のうちに人間的な成長の規準に従って、その人性は、しだいに成長していったのです。(聖母から司祭へ87.8.21)

 

神は降り給うた以上、また彼は秩序それ自身であり給う以上、人間になり給うためには、自らがみごもられ、子宮内に運ばれ、生まれ、教育され徐々に知識を獲得し、かくして理知と知恵とを獲得することが必要であった。この理由から、彼はその人間性の方面では、他の幼児のように幼児であり、他の少年のように少年であり、その他の点でも他と同様であり、ただ、彼は他の者よりも更に速やかに、更に豊かに、更に完全にその進歩の段階を経給うたという唯一の相違があったのみである。(スウェーデンボルグ/真の基督教/89)

 

 

神的なもの[神性]が主の人間的なもの[人間性]の中に受胎のときから存在されなかったら、その人間性は、神性それ自体がその中に存在している無限の愛の灼熱のために、神性それ自身に結合することはできなかったであろう(6849番)。それでいかような天使も神性それ自身には遠方からでないかぎり、またヴェールをかけられないかぎり、決して結合することはできない。もしそうでないなら、かれは焼きつくされるであろう(6849番)。神的愛はこうした性質を持っている(8644番)。ここから主の人間性は他の人間の人間性のようなものではなかったことが明らかとなるであろう(10125,10826番)。(スウェーデンボルグ/新エルサレム304)

 

8.審判

黙示録講解734ニ

「審判」は真理を理解することを意味し、かくて理知を意味

 

天界の秘義2372

『審くこと』は真理を教えることについて述べられることは前に示されたが(2235)、ここから内意では『審く』ことは訓す、または教えることである。真理を教えることは、真理はことごとく善を目指しているため、善いことを教えることと同じことである。

 

 

10.代の終わり

スウェーデンボルグ/天界の秘義4060

 

「陽は暗くなり、月はその光を放たないであろう」(マタイ24・29)

 

は、『陽(太陽)』であるところの主への愛と、『月』であるところの隣人に対する仁慈を意味している。『暗くなって、その光を放たないこと』は、それらが現れないで、かくて消え去ってしまうであろうということを意味している。

 

「星は天から落ちるであろう」(マタイ同)

は、善と真理のいくたの知識は死滅するであろうということを意味している。

 

11.厩は洞窟だった

聖母から司祭へ/1987.12.24

近くに、ほら穴があることを教えてくれたひとりの羊飼いのなさけ深いあの態度!

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P192

本当に洞窟である。昔の何かの建物で廃墟の中に通路があり、その向こうに洞窟というよりも、山に掘った洞穴がある。前の建築の土台とも考えられるもので、その屋根は、木の幹に支えられている廃屋である。

 

 12、切り株のように

霊界日記6004

 

13.鈴木大拙博士

法蔵館/鈴木大拙/妙好人/P21

或る意味で言えば、キリストもまた妙好人の一人である。

「天地の主なる父よ、われ感謝す。これらのことを、かしこき者、さとき者にかくして、みどりごに顕したまえり。父よ、然り、かくの如きは御意に適えるなり。すべてのものは、我が父より委ねられたり。子を知る者は父の外になく、父を知るものは、子・・・の外になし。」(マタイ伝、11・16及びルカ伝、10・21)

このようなことをいうものは、学者でもなければ、また客観的に宗教を見ているものでもない。キリストは一般の妙好人よりは表現の力において優勢であり、またせんでんてき精神及び殉教的気迫において尋常ならぬものがあった。が、本質的には、彼もまた妙好人である。

 

法蔵館/鈴木大拙/妙好人/P43

人間倫理の矛盾性も、神がキリストにならなければ人間を救われなかったのも、弥陀の誓願の永劫に渉って尽くることのないのも皆、人間存在、或いは宇宙存在そのものの根源に潜在する罪業から出発するのである。

 

法蔵館/鈴木大拙/妙好人/P63

キリスト教の神は本来の怒りの性格をいつまでも保持しているようだ。佛教では、如来さまは「ありがたい」が、「こはい」ことは少しもない。

 

鳥田四郎/(「新教会」誌201号)、

「予てから私が想像していた通り、博士にはスエデンボルグは殆ど受けられていないことを知った」

 

 

14.支配する

聖母マリアの詩上P108

人間が“すべて”を支配するとは、“自分の三つの状態”を支配できるようにである。まず下等な“物質”の状態、中の“動物”の状態、上の“霊”の状態を。この三つは神を得るという唯一の目的に達するためのものである。人間は“自我の”すべての力を鉄のような支配をもって神に達するという“唯一の”目的に従事させることである。

 

 

16.牢名主

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々P204、205

この人たちは、もう神のことばを話すことさえ知らない。これも当然でしょう!この人たちは、人間の舌しかなく、人間のことばしか話さない。時として、サタンのことばを話し、罪のない人々と貧しい人々を狂ったようにとがめる能しかなく、権力者の腐敗について沈黙を守ります。なぜなら、皆堕落したもので、同じ罪のある者同士とがめられないからです。(中略)

 

この人たちは、墓の中の屍のように、牢名主のように、己の考えと憎しみに閉じ込められています。こういうふうな人々は、人間の姿をした“ミイラ”に過ぎず、その体は枯れ木に等しい。この人たちは、神殿の中にいるが、燭台のすすと虚栄の煙で燻製になっており、光はこの人たちのところにまで届かない。

 

17.告解・赦しの秘跡

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P222

我が教会の娘よ、教会に従順なら、私をがっかりはさせない・・・たびたび赦しの秘跡を受け、自分を罪人と認めなさい、そうするなら毒蛇、偽りの父は、あなたを騙せない・・・悔い改めのうちに ふさわしい果実:愛の実を常に実らせよう、こうして我が愛のうちに 成長していきなさい・・・さあ来て 私のメッセージを書くように:

 

18. 不幸

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて1・16・4(P49

 人の徳の高さがどれほどであるかは、不幸の時に一番よく現れる。

 かような機会は人を弱くせずに、ただその人がどんな人物であるか示すからである。

 

 

19.通俗作家

 

天界の秘義639

もし箱舟がそれに瀝青を上塗りしたこととその寸法とその構造とともに、また洪水も、その文字が表わしていること以上に何ごとも意味していないならば、その記事には霊的な天的なものは何一つ無く、単に歴史的な物のみがあるに過ぎないのであって、それは人類には世俗の作者達から記された類似の物と同じく何の役にも立たないであろう。しかし主の聖言は至る所でその胸に、または内部に霊的な天的なものを包含しているため、箱舟により、また箱舟について言われている凡ての事により、未だ啓示されなかった隠れた事柄が意味されていることは極めて明らかである。

 

天界の秘義639[]

ここでも同様であり、もし箱舟とその構造が、その幾多の細々したこととともに、教会の何か隠れた事柄を意味しないならば、聖言は主の聖言ではなくなって、通俗作家の場合のように、一種の死んだ文字となるであろう。

 

 

 

20.義人は誓いをしない

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P153

「あなたは彼女に一度も会っていないと誓えますか?」

「義人は誓いをしない。自分のことばは信じる値打があると言える権利を有しているからです。私は彼女を見たことがないし、また、その村を一度も通ったことがありません。村全体がこれを証明できます」

 

21.T(タウ)の形

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P16

ちょうど今、私は、人を救う“しるし”に形を変え、ルチフェルが正視できない“T(タウ)”の形に、自分を置き、お前に住み着こうとする者を取り除いた。

 

22.洪水

天界の秘義4423

そのときその古い教会のものであって、天界から遠ざかっている者たちはその内部の方面では一種の洪水の中におり、事実かれらはその頭も浸されている洪水の中にいるのである。この洪水は、その人間自身は身体の中に生きている間は認めはしないが、死後その中へ入って行くのである。他生ではこの洪水は明らかに密雲のように現れ、かれらはその雲にとり囲まれて、天界から引きはなされているのである。この密雲の中にいる者らの状態はかれらが信仰の真理の何であるかを到底認めることはできないということであり、ましてやその善の何であるかを認めることはできないということである。なぜならその中に理知と知恵とが存在している天界の光はこの雲の中へさしこむことはできないからである。これが剥奪された教会の状態である。

 

 

黙示録講解538イ

 

これらの地獄が海のように現れているのは誤謬が絶えずかれらから流れ出ていて、誤謬は水のように現れているためであり、このことが聖言の中で『水』がまた誤謬を意味している理由である。

 

さらに水そのものからそこの誤謬の性質が知られている、なぜなら誤謬には悪と同数の多くの種類が在るからである。甚だしい悪から発している誤謬は濃密な黒い水のようにそのいくたの地獄の上にそれらをおおて現れ、自己愛から発した誤謬は赤みがかかった水のように現れ、その濃度と色とが誤謬の種類を明白にしている。霊界では真理もまた水のように現れているが、しかし澄んだ、純粋な水のように現れていることを憶えておかなくてはならない。

 

このことは、三つの天界があるように、人間の生命には三つの度があるためである。その中の第三の度が開かれている者たちはエーテルのように純粋な大気の中におり、第三の、または最も内なる天界の中にいる者たちはそうした大気の中におり、その中に第二の度のみしか開かれていない者たちはいわば空気のような大気の中におり、第二の、または中間の天界の中にいる者たちはそうした大気の中にいるが、しかしその中に第一の度のみしか開かれていない者たちは一種の水のような、希薄な、純粋な大気の中におり、第一の、または究極の天界の中にいる者たちはそうした大気の中にいるのである。

 

このことはさらに完全なものとして存在している内的な認識と思考とは、その他もたちがその中にいる純粋な大気に似た大気に相応しているためである、なぜなら内的な認識と思考とは天使各々からそれ自身を注ぎ出しており、ましてや天使の社会からはさらにそれ自身を注ぎ出し、相応したスフィアを提示し、そのスフィアは天使たちの認識と思考の、すなわち、かれらの理知と知恵との純粋なものに似た純粋なものの中に明らかに示されている。このスフィアは、すでに言ったように、大気のように、最も内なる天界ではエーテルのような大気のように、中間の天界では空気のような大気のように、究極の天界では希薄な水のような大気のように現れている。

 

 

(中略)

このことはそうした地獄が聖言の中では『海』と『深淵』と呼ばれている理由を明らかにしており、『海』と呼ばれているのはそれらが海のように見えるためであり、『深淵』と呼ばれているのはそれらの深さからであるためである。

 

(中略)

しかし主は絶えず主から善から真理の中にいる者たちのもとではその誤謬を消散されており、それでこれが『海をほせ上がらすこと』、『かれらを深淵を通って導くこと』により意味されていることである。

 

 

 

 

23.王たちの肉を食らい(黙示録19章、エゼキエル書39章)

黙示録講解617ニ(24)

新しいエルサレムの教義222

 

24.存続は不断の発生

天界の秘義9847

事物はそれが発生してくる源泉と同じ源泉から存続する。存続は不断の発生であるから。

 

25.見張り人[ものみ]

天界の秘義9926[]

あなたの見張り人[ものみ]の声、かれらはエホバがシオンに帰られるのを目と目を合わせて見るとき、その声を上げるでしょう(イザヤ52・8)。

 

『見張り人[ものみ]』は主が来られることについて聖書を探求している者たちを意味し、その『声』は源泉となっている神的な真理である聖言を意味しているのである。エレミヤ記には―

その理解により地を作られた方は諸天を広げられた。その立てられる御声により諸天にはおびただしい水が溢れる(10・12、13、51・16)。

 

ここの『御声』は神的な真理を、『水』は諸天界の中に在り、また諸天界から発している諸真理を意味しているのである。(聖言の『水』が真理を意味していることについては、2702、3058、3424、4976、5668、9323番を参照されたい。)

 

26.香料

天界の秘義10291

「あなたに芳香を放つ香料を取りなさい」。

これは神礼拝の中に存在しなくてはならないところの、善から発した真理を求める情愛を意味していることは、『香料』の意義から明白であり、それは真理に対する、また善に対する認識と情愛である(10254番)。

 

27.貴族

黙示録講解537ロ

『貴い者[貴族]』は他の者たちを導き、これに教える者らを意味

 

 

28.さまよう

天界の秘義380

『地の逃亡者、さすらい人』は善い真のことを知らないことである。

 

天界の秘義382

『地の逃亡者、さすらい人』は善い真のことを知らないことを意味していることは聖言の『さまよう』『逃げ去る』の意義から明白である。例えばエレミヤ記には―

 

 予言者と祭司とは目しいとなってちまたをさまよう、彼らは血に汚れている、その行うことができない物に衣服で触れる(哀歌4・14,14)。

 

 ここの『予言者』は教える者であり、『祭司』はそれに従って生活する者であり、『目しいとなってちまたをさまよう』は真の善いことを知らないことである。

 

2]アモス書には―

 

 畠の一部には雨が降ったが、雨が降らなかった畠の一部は枯れてしまった、それで二つまたは三つの都は一つの都にさまよって行き、水をのむが満足できない(4・7,8)。

 

 ここの『雨が降った畠の一部』により仁慈から発した信仰の教義が意味され、『雨が降らなかった畠の一部』または『区画』により仁慈の無い信仰の教義が意味されている。『さまよって行って水を飲む』ことは同じく真理を探究することである。

 

 

33.メジュゴリエ 

友人の家で、メジュゴリエのマリア様のご像から2度油の涙が流れます。(デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P51)

 

 

 

40.自由の神

私の望みは、仲介することと速やかにあなたがたを救うことである。しかし私は自由の神であるので、選択に際しての選別はあなたがたにかかっていることを忘れてはならない。(デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P144)

 

シスター・エマニエル/メジュゴリエの証言者たちP70

聖母:信じない人々にあなたの信仰を押しつけてはいけません。あなたの模範によって示しなさい。そして彼らのために祈りなさい。

 

 

 

46.私たち・一緒に

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P54

我がヴァッスーラ、生まれた瞬間からずっと目で 追いつづけてきたのを知っているか?私は(I Am)あらゆるときに(そうです!)あなたと一緒です そして(そうです!)現存している!・・・

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P50

イエス:この無慈悲な砂漠を渡っていくのが、愛する者よ、きついのは承知している、しかし私がともにいる・・・

 

(中略)父:たとえ皆が、もっとも親しい友さえも、あなたを見捨てようが、私は 決して見捨てない。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P147

さあ、では私のうちに憩いなさい、娘よ。あなたの痛みと心配のすべてを私に与えなさい。そして特に次のようにいつも言うことによって、あなたの生活に私を参加させて欲しい。『私たちはお腹が空きました、私たちは眠いです、祈りに行きましょう等々・・・』と。私たち二人は共におり、私はあなたに命を与えているのだから!勝利の王である私に従う者は、彼も勝利の使者となるだろう!

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1P148

四番目として、これから先あなたとわたしの間ではもう、あの“あなた”とか“わたし”ということがないように望みます。ですからもう“あなたがする”“わたしがするでしょう”などとは言わずに、“わたしたち”を使いましょう。

 

53.

 

54.空気

光と熱とを持つ太陽は先ず空気の中に入り、それによって働きかけない限り、如何なる人間にも、獣にも、或いは植物にも何らの効果を及ぼすことが出来ないし、又水を通らない限り如何なる魚にも同様に何らの効果をも与えることが出来ない。何故なら、それはその対象が由って持って生きている元素を通して働きかけるからである。(スウェーデンボルグ/真の基督教/125)

 

55.自分の意見を放棄

あなたたち自身の意見を放棄しなさい。(デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻下P45)

 

自分の思いをなくしなさい。(愛の炎/世のひかり社/P25

 

58.

59.

 

61.詐欺漢と偽善者

これが他生で詐欺漢と偽善者とが他の者が受ける以上の凄惨なものを受ける理由となっている。(天界の秘義2269)

 

 キリスト教徒は神性の三人格いついていかような種類の考えを抱いているかをたしかめるために、調べられた、以下のことが明らかにされたのである、すなわち、かれらは色々な考えを持っており、或る者は、一人の人格を他の人格の近くにおいて共に協議しており、第三の人格がその二人の人格から送り出されている、と考えており、或る者は、共になって話し合っていて、キリストが仲介役を買って出ておられる、と考えており、或る者はその三人格を継続した秩序においており、或る者は他の方法においているが、しかしこれらは三人の神々であるため、マホメット教徒と異教徒がその場に現われると―この者たちはキリスト教徒の考えを認めているため―かれら恥じ入って、警戒するのである。(スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP52)

 

三人の神的な人格があるが、しかも一人の神であり、この神は一人であるけれども、しかも一人の人格ではないという一般的な神秘的な叙述の不合理さを認めない者があろうか。しかも麻痺した知性は、口を強いてオウムのように語らせる。そして知性が麻痺する時、口の言葉は単なる饒舌以外の何ものであろうか。理性が否定するものを口が語る時、言葉は欺瞞でなくて何であろうか。(真の基督教169)

 

 

66.主が奇跡を行なわれる際に聞かれた理由

教会の最初の、主要なことは神を知り、かくて主を知ることであり、またこのようにして一人の神を知ることであるのは、教会の他の事柄は、教義も認識もそのことに依存しているためである。人間は他の方法によっては聖言を理解することはできないのであり、そのことは異教徒であった古代人の例から明らかとなるであろう、すなわち、かれらも同様に祭壇を持ち、生贄を捧げ、教会の祭儀に属している他の事柄を持ってはいたものの、依然エホバを拝しなかったのであり、その中の若干の者らは神シャッダイを拝し、他の者は或る他の神を拝したにも拘らず、根絶されてしまったのは、かれらは天界に受け入れられている教義を、また礼拝を何一つ持たなかったためである。

 

こうした原因から、主がその許で奇跡を行なわれた者らに、あなたらは信仰を持っているか、否かとたずねられ、その信仰に従って奇跡が行なわれる、と言われたのであり、そのことは、主は神の子であられ、凡ゆるものを治める力を持たれており、自らが天から降られている神であることが承認されるためであったのである。このことが神が人間と連結されることにおける最初の、最も主要な事柄であったのである。

 このことが新しいエルサレムと呼ばれる教会の最初の事柄である。

 

法王派の宗教については、主を崇めて、法王を重だった祭司であるとしか承認しない者はことごとく受け入れられるのである。かれらは、真理が全く欠けているその教義から、空虚なものとなってはいるものの、父なる神をめったに拝しないし、主を父なる神から引き離しもしないため、受け入れられているのである。(スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/静思社/P30)

 

81.相応の科学

真の基督教206

 

 

83.祭り

天界の秘義9294

『祭り』の意義は主を礼拝し、感謝すること(9286,9287番を参照)

 

84.たねを入れない物の祭り

天界の秘義9294[]

たねを入れない物の祭りと呼ばれた最初の祭りは誤謬から清めされることを意味

 

 

93.魔術

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P243

主がケリオットのユダに:

「子よ、禁じられた実に手を伸ばしてはならない。それに近寄るだけでも不見識です。超自然的なことに好奇心を抱いてはならない。悪魔的な毒に冒されないように。隠されたことは避け、説明し得ないことは探るな。聖なる信仰をもって迎えられるべきものは一つだけ、それは“神”です。神ではないもの、理性の力だけでは説明しきれないものを探るのは避けなさい。罪悪の淵が開かれ、“おまえは裸である”と分らないように。

 あいまいな不思議を行ってまで、どうして人の意表をつきたいと思うのですか。むしろ、おまえの聖徳によって、神から来るその光によって、驚かせなさい。生きる人々とあの世にいる人々とを隔てるヴェールを引き裂く望みを持つな。死者の安らぎを妨げるな。彼らが知恵者であれば、この世にいる間に聞け。死後は従順によって尊敬せよ。死者としての第二の生活を乱すな。主の声に従わない人は主を失う。主は霊媒術、秘教、サタニズムのいろいろな形式を禁じた。

 みことばが語ること以上にどうして知りたいのか。子よ、罪ではなく聖徳にあこがれなさい。」

 

 

94.箕

エレミヤ15−7

わたしはこの地の町々の城門でかれらを箕であおり、まき散らし

わが民の子らを奪い、滅ぼす。

彼らがその道を改めないからだ。

 

 

マタイ3・11−12

わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる

 

 

 

106.連り

一つのものも多くのものによらなくては決して在りえないのであり、他と交わってはいない、また相互に連ってはいないものは一つとして存在しないのであり、そうした連りがなくてはそれらはいかようなことも行うことができないのであり、ましてやそれらはただ一つのものにも、引いては全般的なものにも貢献することはできないのである。(スウェーデンボルグ/霊界日記1254)

 

 

 

 

 

117.くじけない

 

黙示録講解103

 

「くじけはしなかった」は、為し得る限り、を意味している。このことは『くじけないこと』の意義から明白であり、そのことが真理と善とにかかわるいくたの知識を熱烈に求めている者たちについて言われているときは、なし得る限り、である、なぜなら今以下に記されている事の中には、これらの知識に従った生命[生活]がとり扱われているからである。この知識に従った生命の中にいる者たちは前進して、くじけはしないが、しかし未だ知識の中にのみいる者らは、為し得る限り前進はするものの、活力が発生する生命の光を得てはいないのである。

 

118.割合

 

然し百人の中五人も之を真理として認めていない

(主は父ご自身へ)

真の基督教98

 

父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、然し百人の中五人も之を真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富との為に学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以て捧げ、遂にその心はその教義に取りつかれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまった為、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、是のみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。救いは神を知り、之を認めることにかかっていることは、神は天界、教会、従って神学の凡ゆるものであることを考える凡ての者達に明白であるに違いない。

 

 

学者たちの中では僅かな者しか― 一千人の中殆ど一人位しか ―人間は死後も生きることを、すなわち、人間の形をとって生きることを信じてはいない

(人間は死後も生きるへ)

霊界日記5245(第8巻)全文

 

 私は復活についてマホメット教徒と話して、以下のように言った、すなわち、復活は世界の凡ゆる物がまさに死滅するばかりにならない中は起りはしないのであり、そのときになると〔死滅するばかりになると〕身体と霊魂とは結合すると、キリスト教国に信じられており、また、学者たちの中では僅かな者しか― 一千人の中殆ど一人位しか ―人間は死後も生きることを、すなわち、人間の形をとって生きることを信じてはいないのである、と。こうした事柄に彼らは驚いて、言った、自分たちは、自分たちが死後も生き、その際人間となることを知っており、自分たちは、世で、かの粗悪なスフィアの中で ―自分たちに役立ったその着物をただ脱ぎ去ったにすぎないのである、と。彼らはキリスト教徒がこうしたことを、それが最大に重要な意義を持っているものであるにも拘らず、知りはしないことを怪しんだのである。

 

(信仰と良心は不可分へ)

霊界日記5855

 

私はしばしば、他生にいる者らについて、彼らは良心とは何であるかを知らず、かくて千人の中ほとんど一人さえもそのことを知ってはいないことを認めもし、聞きもしたのである。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P50

 

今、同じことが起きている。大規模において小規模において、社会的にも、あるいは個人的にも、九十パーセントは当時のファリサイ人のように生きており、同じ方法で行動している。金銭欲、傲慢、非情な心、淫欲、貪欲、飽食など、あらゆる形のエゴイズムがあなたたちの生活基盤行動規範である。イシマエルの頑なさに怖じ気を振るってはならない。あなたたちも、あなたたちにもはや役立たない者に対して同じように振る舞っている。あなたたちのうちでは、愛徳も愛徳も死んでいる。あなたたちは自分自身しか愛していない。

 

 

 

 

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