自然的な真理

 

天界の秘義5008[3]

 

教会の中にいて霊的なものでない自然的な真理の中にいる者たちもまた人各々が隣人であると言いはするが、かれらは度も差別もみとめはしないのであり、それでもしかれらは自然的な善の中にいるなら、かれらの憐れみの心をかきたてる者には凡て無差別に善を為し、善良な者よりも悪い者にさらにひんぱんに善を為すのである、なぜなら悪い者はその悪辣な心から憐れみをかき立てる方法を知っているからである。この例からもまた霊的なものでない自然的な真理の中にいる者と霊的な自然的な真理の中にいる者たちとはこの究極的な真理では一致しているが、にも拘らずその中には連結はなく、ただ類似があるにすぎないことが明らかである、なぜなら前の者は隣人と隣人に対する仁慈とを後の者とは異なった考えと意味で認めているからである。

 

 

天界の秘義5008[7]

 

 このことから究極的な霊的な真理は自然的な人から見られたさい、いかような性質のものであるかが明らかである、すなわち、それは上着のようなものであり、この上着が取り去られると、自然的な人と霊的な人とはいささかも一致していないし、従って霊的な人は自分自身を自然的な人から防禦する手段となるものを何一つもはや持ちはしないのである。このことがヨセフがその上着を棄て去ったとき逃れて、外に出ていったことにより意味されているのである。なぜなら単に自然的な人は内的な事柄を承認しないのであり、それで外的なものが取り去られ、また取り上げられると、その両方の者は直ぐにも分離してしまうからである。さらに、自然的な人は、霊的な人が究極的な真理を確認するに当ってその手段とする物を凡て誤謬と呼ぶのである、なぜなら霊的な光のものである事柄を自然的な光から見ることは不可能であるため、かれは自分が確認するものは実際そうしたものであるが、否かを認めることはできないからである。このことは[自然的な光から霊的な光のものであるものを見ることは]秩序に反しているのである、しかし自然的な光の中に在る物が霊的な光から見られなくてはならないことは秩序に順応しているのである。

 

 

天界の秘義5011

 

「彼女はその家の男たちに向って叫んだ」。これは誤謬を意味していることは『叫び声』の意義から明白であり、それは誤謬であり(2240番を参照)、そこから『叫ぶこと』は誤謬について述べられている。『彼女の男たち』はその純粋な意義では善の諸真理であるが、その対立した意義では悪の誤謬である。ポテパルの妻が今その家の男たちに、後にはその夫に語った事柄は誤謬であることは彼女の言葉そのものから明白である。ここではポテパルの妻であるところの自然的な真理は、(その最も外なる外観ではその自然的な真理と連結しているかのように見えるところの)究極的な霊的な真理が引き離された後では、誤謬を、または真理に反した事柄を話さないわけにはいかないことは、前に認めることができよう(5008番の終り)。

 

 

天界の秘義5013

 

ここの『ヘブルの男』が僕[召使い]を意味していることは主として以下の理由によっている、すなわち、ここにポテパルとその妻により表象されているところの、霊的なものでない自然的な真理と善とにいる者たちは、ヨセフにより表象されているところの霊的な真理と善とを僕としか認めないのである、なぜならかれらにあっては自然的なものが支配して、霊的なものが仕えているため、かれらは生命でも教義でも、転倒した秩序にいるからである、が、霊的なものが支配して自然的なものは仕えなくてはならないことが秩序に順応しているのである。なぜなら霊的なものは先在的なものであり、内的なものであり、高いものであり、神的なものにさらに近づいているに反し、自然的なものは後在的なものであり、外的なものであり、低いものであり、神的なものからはさらに遠ざかっているからである。こうした理由から人間における、また教会における霊的なものは天にたとえられ、また天とも呼ばれ、自然的なものは地にたとえられて地とも呼ばれているのである。(中略)自然的な人間たちは霊的な事柄を仕えるものとして認めていることは、エジプト人がヘブル人を僕としてしか認めなかったことによってもまた表象されたのである、なぜならエジプト人により、自然的な知識の中におり、それで自然的なものである者たちが表象されたが、ヘブル人により、教会のものであり、それで相対的には霊的なものである者たちが表象されたからである。