自然的なもの
天界の秘義3293
「二つの国民があなたの胎の中にいます」。これは内的な善と外的な善の方面の自然的なものを意味し、(それらが)みごもっていることを意味していることは、『国民』の意義から明白であり、それは善であり、特に、教会の善であり(1159、1258、1260、1416、1849番を参照)、ここでは自然的なものにおける善が意味されていることは以下の事実から明白である、即ち、そのとき胎内にいたエソウとヤコブとは主の神的な自然的なものを表象しているのであって、このことは彼らが取り扱われている以下の記事から非常に明白になるであろう。自然的なものも、合理的なもののように、善と真理とから成っており、自然的なものにおける善は自然的な情愛に属している凡てのものであり、歓喜と呼ばれているが、しかし真理は記憶に属している凡てのものであって、記憶知と呼ばれている。何らかの自然的なものが存在するためにはこの二つのものが自然的なものの中に存在しなくてはならないのである。記憶知は情愛に属している何らかの歓喜から引き離されて抽象的なものになった際は、それはそれ自身ではいかようなものでもない[無意味なものである]、なぜなら自然的なものはその中に在る歓喜からその生命を得ており、この歓喜から何かを知るその能力を得ているに反し、自然的なものの善である歓喜は記憶知をもっていないものであるが、しかし幼児が持っているような生命力に過ぎないからである。それで自然的なものが人間的なものとなるためには、それは両方のものから成り立たなくてはならず、一方のものは他方のものにより完成されるが、しかしそれはその真の生命を善から得ているのである。
天界の秘義4570[2]
人間の中には互に他から極めて明確に区別されている二つのものが、即ち、合理的なものと自然的なものとが存在している。合理的なものは内なる人を構成し、自然的なものは外なる人を構成しているが、自然的なものもまた、合理的なもののように、それ自身の外なるものと内なるものとを持っているのである。自然的なものもまた、合理的なもののように、それ自身の外なるものと内なるものとを持っているのである。自然的なものの外なるものは身体の感覚から発しており、また世から直接にこれらの感覚を通して流れ入ってくるものから発している。これらの感覚により人間は世の事柄と身体の事柄と交流しているのである。この自然的なものの中に専らいる者たちは感覚的な人間と呼ばれている、なぜなら彼らは思考ではそれよりは先に殆ど進まないからである。
天界の秘義5908
『全エジプト』の意義は自然的なものにおける記憶知であり、かくて自然的なものにおける一切のものである。なぜなら自然的なものは記憶知から成っているからである。
新エルサレムの教義48
「自然的なものと霊的なものとについて」
自然的な人は、その者自身では、生来霊的な人に反している(3913、3928番)。それでその二つのものが互に相反している限り、人間は霊的な天的な事柄を考えることを嘆かわしいことに思い、自然的な、形体的な事柄を考えることを楽しく感じている(4096番)。彼は天界の事柄に対し、単に霊的な事柄が語られることにさえも、嫌忌を感じる、経験から(5006、9109番)。