嗣子

 

 

 

天界の秘義1799

 

「見てください、わたしの家の息子がわたしの嗣子[相続人]です」。これは主の王国には外なるもののみしか存在しないであろうということを意味していることは『嗣子[相続人]』と『嗣ぐこと[相続すること]』の内意における意義から明白である。嗣子になることは、また嗣ぐことは主の王国における永遠の生命を意味している。主の王国にいる者はすべて嗣子である、なぜならかれらは相互愛の生命である主の生命から生きていて、そこから息子たちと呼ばれているからである。主の息子たちはまたは嗣子[相続人]は主の生命の中にいる者すべてであるが、それはかれらの生命は主から発しており、かれらは主から生まれ、すなわち再生しているからである。たれかから生まれている者は嗣子[相続人]であるが、主から再生しつつある者も同じく嗣子である、なぜならそうした場合かれらは主の生命を受けるからである。

 

[2]主の王国には外なる者と内的な者と内なる者とがいる。第一の天界の中にいる霊は外なる者であり、第二の天界の中にいる天使的な霊は内的な者であり、第三の天界の中にいる天使は内なる者である。外なる者たちは主に内的な者たちほどには密接に関わりをもってはおらず、または近づいてはいないし、また内的な者も内なる者ほどには主に関わりを持ってはいないし、または近づいてもいないのである。主は神的な愛からまたは慈悲から、すべての者を御自身の近くに置こうと望まれておられ、それでかれらが戸口に、すなわち第一の天界にいないで、第三の天界の中にいるように、できることなら、単に御自身のもとにいるのみでなく御自身の中にさえいることを望まれておられるのである。こうした者が神的な愛または主の愛であるが、教会はそのときたんに外なるものの中にのみいたため、主はこの言葉の中に訴えられて、『ごらんなさい、わたしの家の息子が、わたしの嗣子[相続人]であります』と言われたのであり、この言葉によりかくて主の王国の中には外なるもののみしか存在しないであろうということが意味されているのである。しかしそれに続いて記されている節の中に慰めが、内なるものにかかわる約束がつづいて記されているのである。

 

[3]教会の外なるものとは何であるかは前に述べたところである(1083、1098、1100、1151、1153番参照)。前に言ったように、教義に関わるものがそれ自身では外なるものを作るのではない、ましてや内なるものを作るのではない、また主にあってもそれが諸教会を相互に他から区別するのではなく、それを行うものは教義的なものにしたがった生活であり、その教義的なものはすべて、それが真のものでありさえするなら、その根元的なものとしては仁慈を目標としているのである。教義は人間が如何ように生きねばならぬかを教えるものでなくて何であろう。

 

[4]基督教界では教会を区別しているものは教義的なものであり、その教義的なものから人間は自分自身をロマ・カトリック教会、ルーテル派、カルビン派または改革派、福音派などと呼んでいるのである。かれらがそのように呼ばれているのは教義的なもののみによっているのであって、こうしたことはもしかれらが主に対する愛と隣人に対する仁慈とを信仰の第一義的なもの[主要なもの]とするなら、決して存在はしないであろう。そうした場合教義的な事柄は信仰の諸々の秘義に関わる種々の見解であるにすぎなくなり、真に基督教的な人間ならそれらをたれでもその者の良心にしたがって抱くままにさせて、その心の中に、人間が基督教徒として、すなわち、主が教えられているように、生活するときは、真に基督教徒であると言うであろう。かくて互に異なっている諸教会のすべてから一つの教会が形作られ、教義のみから生まれているあらゆる分離は消滅してしまうであろう、実に相互に他に抱き合っている憎悪もことごとくたちまち消散して、主の王国は地上に臨むであろう。

 

[5]洪水直後の古代教会は多くの王国に拡まっていたけれど、それでもこうした性格を持っていたのである、すなわち、人々は教義的な事柄についてはかれらの間では非常に異なっていたのであるが、それでも仁慈を第一義的なものとしたのであり、礼拝を、信仰にかかわりをもった教義的なものから眺めないで、生命[生活]にかかわりをもった仁慈から眺めたのである。このことがかれらはすべて一つの唇を持っており、その言葉も一つであったと言われているところに(創世記11・1)意味されているのであり、そのことについては前に言ったことを参照されたい(1285番)。

 

 

天界の秘義1802[2]

 

第三の天界の天使の中に内なるものが存在するに応じて、かれは主の王国の嗣子[相続人]となり、第二の天界の天使の中にもその同じものが存在するに応じて、かれも嗣子となり、同じように第一の天界の天使の中に内なるものが存在するに応じ、かれもまた嗣子となっている。たれであれその者を嗣子とするものは内なるものである。内的な天使のもとには内なるもんは外的な天使のもとにあるよりも多くあり、それで前の者は主にさらに近づいており、さらに完全に嗣子となっている。内なるものは主に対する愛と隣人に対する仁慈であり、それゆえかれらの抱いている愛と仁慈に正比例して、かれらは息子と嗣子[相続人]となっている、なぜならかれらはそれに正比例して主の生命に与っているからである。

 

[3]しかしたれ一人愛のいくたの善と信仰のいくたの真理とを教えられない中は第一のまたは外なる天界から第二のまたは内的な天界へ到底引き上げられることはできない。かれは教えられるに応じて、引き上げられて天使的な霊たちの間に来ることができるのである。天使的な霊たちも第三の天界にまたは天使たちの間に引き上げられ、または来ることができる以前は同一である。教えられることにより内的なものが形作られ、内的なものにより内なるものが形作られて、愛のいくたの善と信仰のいくたの真理とを受けるに適合したものとされ、かくして善い真のものを認識するのである。たれも自分が知らない、また信じないものを認識することはできないのであり、したがって知識によらなくては、愛の善と信仰の真理とを認める能力を与えられて、そのいかようなものであるかを、いかような性質を持っているかを知ることはできないのである。それはすべての者においても、幼児においてさえもそうであり、幼児はすべて主の王国の中で教えられるのである。しかし幼児たちは謝った主義[原理]に浸透していないため、容易に教えられるが、しかしかれらは全般的な真理のみを教えられるのである、かれらはこれを受けると、無数にまたは無限にいくたの事柄を認めるのである。

 

[4]このことは全般的に何かの真理を説きつけられる者にも当てはまるのであって、その全般的な真理の個々のものを、またその個々のものの単一のものを―それらは全般的な真理を確認させるものであるが―かれは恰も自分自身で、または自発的に学ぶかのように、容易に学ぶのである、なぜならかれは全般的な真理により、心を動かされ、そこからまた(その全般的真理を)確認させるところの、その同じ全般的真理の個別的なものと単一的なものにより心を動かされるからである、なぜならこれらのものは歓喜と愉しさとをもってその全般的な情愛の中に入り、かくて絶えずそれを完全なものにするからである。これらのものがかれらが『嗣子[相続人]』と呼ばれる理由ともなり、また主の王国を嗣ぐことができる手段ともなっている内なるものである。しかしかれらは善の情愛の中に、すなわち、相互愛の中におり、その相互愛の中へ善と真理にかかわるいくたの知識により、その知識に対する情愛により導き入れられるとき、初めて嗣子[相続人]となり初めるのであり、または相続権を持ち初めるのであり、かれらは善の情愛の中にまたは相互愛の中にいつに正比例して、『嗣子』となり、または嗣業[相続財産]を得るのである。なぜなら相互愛はかれらが主の本質から、かれらの父から受けるものとして受ける生命そのものであるからである。これらのことはつづいて次の節に記されていることから認めることができよう。

 

 

天界の秘義2658[3]

 

『相続する[嗣ぐ]』ことが主について述べられているときは、それはその内意では父の生命を持つことであり、それが人間について述べられているときは、主の生命を持つことであり、すなわち、主から生命を受けることであることは、聖言の多くの記事から明白である。御自身の中に生命を持つことは、または主から生命を受けることは愛と信仰の中に主を受けることであり、そしてこのようにして主を受ける者は主の中にいて、主のものであるため、主の『相続人 [嗣子]』、主の『息子』と呼ばれている。