白
天界の秘義3993[5]
『白』はその内意では真理を意味し、元来主の義と功績とを意味し、[派生的には]人間における主の義と功績とを意味している。この白は主から発している光から輝いているため、『輝いた白』と呼ばれている。しかしそれに対立した意義では『白』は人間自身の義を、または人間自身の功績を意味している、なぜなら善のない真理はこのような自己功績を伴っているからである、なぜならたれかが善を行いはするが、それを真理の善から行わないときはかれは自己自身のためにそれを行うため、常に報いられることを欲しているが、それに反し、たれかが善から真理を行うときは、こうした善は主から発している光によりそのとき明るくされるからである。このことが『斑点のある』により意味されていることを、すなわち誤謬が入り混じっている真理を示し、また『まだら[ふ入り]』により意味されていることを、すなわち、悪が入り混じっている善を意味している。
天界の秘義4007
「その中に白い色をもった各々のもの」。これは真理が内にあるところの、を意味していることは、『白[白色]』の意義から明白であり、それは真理であるが、しかし元来主の義と功績であり、派生的には人間における主の義と功績である(3301、3309番を参照)。『白』にこうした意義がある理由は、主から発してい、輝きと白さとの源泉となっている天界の光は真理を意味しているということであり、それでその光により明るくされて、照り輝いているものは人間における主の義と功績と呼ばれているものである。善から主の義を承認し、受け入れて、自分自身の義を斥ける者たちは『義しい者』によりとくに意味されている者たちであり、その者たちについては主はマタイ伝に以下のように言われている―
義しい者はその父の王国の中で陽のように輝くであろう(マタイ13・43)。
天界の秘義4007[2]
『輝いているまたは照り輝く白い色』にこうした意義があることはまた聖言の他の記事から明白である、例えばモーセの書には―
その目はぶどう酒よりも赤く、その歯は乳よりも白くなるであろう(創世記49・12)。
これはユダのことを語っているが、ユダにより主の愛の神的なものの方面が表象され、内意では天的王国が表象され、かくて天的な人が表象されている(そのことは前の3881番に見ることができよう)。『目がぶどう酒よりも赤いこと』は神的な知恵[神の知恵]を意味し、『歯が乳よりも白いこと』は神的な義[神の義]を意味している。ダビデの書には―
あなたはヒソプでわたしを清めたまわねばならない、さすればわたしは清くなるでしょう。あなたはわたしを洗いたまわねばならない、さすればわたしは雪よりも白くなるでしょう(詩篇51・7)。
『洗う』と『雪よりも白くなる』は主の義を受け入れて、着けることにより罪から清められることを意味している。ヨハネの書には―
七つの燭台の最中に人の子のような方がおられた、その頭と髪とは白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は火の焔のようであった(黙示録1・13、14)。
天界の秘義4007[3]
同書に―
あなたにはサルデスに己が上着を汚していない数名の者がいる、かれらは白いものを着てわたしとともに歩むであろう、かれらは価値あるものであるから。勝ちを得る者は白い上着を着るであろう(黙示録3・4、5)。
同書には―
わたしはあなたに火で清められた金をわたしから買って、富み、また白い上着を買って着るようにすすめる(黙示録3・18)。
さらに―
祭壇の下にいる魂の各々に白い外衣[寛衣]が与えられた(黙示録6・9−11)。
さらに―
わたしはかれらが王座の前に、また小羊の前に、白い外衣を着て立っているのを見た。長老の一人はわたしに言った、白い外衣を着ているこれらの者はたれでありますか、またかれらは何処から来ていますか。わたしはかれに言った、主よ、あなたは知っておられます。かれはわたしに言った。これらの者は大いなる患難からでてきて、その外衣を洗い、小羊の血で、その外衣を白くしたものである(黙示録7・9、13、14)。
さらに―
白い輝いたリンネルを着、その胸に金の帯をまいた天使たち(黙示録15・6)。
さらに―
わたしは見た、見よ、一頭の白い馬を、それにのった者は弓を持たれ、かれに王冠が与えられた(黙示録6・2)。
さらに―
その後でわたしは天が開くのを見た、見よ、一頭の白い馬を。天にいるかれのもろもろの軍勢は白い馬にのり、白い清い目の積んだリンネルを着てかれに従った(黙示録19・11、14)。
天界の秘義4007[4]
これらの凡ての記事では『白[白色]』により信仰の真理が意味されていて、『白い上着』と『白い外衣[寛衣]』がそれ以外の何ものでもない。しかし信仰の真理は、自分は自分自身で信仰を持っており、それで自分自身から賢明であると信じている者たちにはぞくしてはおらず、自分は主から信仰と知恵とを得ていると信じている者たちにぞくしている、なぜならかれらは真理と善とを些も自分自身には帰してはおらず、ましてや自分は自分の持っている諸真理と諸善とを通して功績を持っているとは信じてはおらず、ましてや自分はそれにより義とされるとは信じてはおらず、ただそれらを主に帰することによってのみ、かくて凡ゆるものを主の恩寵と慈悲に帰することによってのみ義とされると信じているため、これらの者に信仰と知恵とが与えられるのである。このことが『白い上着を着ること』であり、また『小羊の血により白くされること』である。天界に入る凡ての者により脱ぎ棄てられる二つのものがある、すなわち、自分自身のものとそこから生まれてくる信頼と自己または自分自身の義の功績があり、かれらは主から発している天界的な自分自身のものと主の功績または義を着けるのであり、かれらがこれらのものを着けるに応じて、益々天界の内部へ入るのである。この二つのものがとくに『赤』と『白』により意味されており、『赤』によりかれらがそのとき得る愛の善が、『白』により信仰の真理が意味されているのである。