白い小石
黙示録2・17
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。
黙示録講解147
「その者に白い石を与えよう」は知恵と理知とを意味している。これは『白い石』の意義から明白であり、それが主から、また主により与えられる時は、それは主の流入から受け入れる事であり、それは、主から受け入れることと主からの流入であるため、また主から発している知恵と理知である、なぜなら主から受け入れ、またその者のもとへ主が流入される者たちは知恵と理知との中にいるからである。『白い石を与えること』はこれらのものを意味しているのは、前には公けの決定においてはその投票は石により行なわれ、白い石は肯定的な見解を示し、黒い石は否定的な見解を示し、それで『白い石』により知恵と理知とが意味されているためである。
黙示録講解148
「その石の上には新しい名が記されており、それは受け入れる者を除いてはたれ一人知りはしない」は、内的な生命の中にいる者たちを除いては凡ての者には知られてはいないその生命の状態を意味している。このことは『名』の意義から明白であり、それは状態の性質であり(そのことについては、「秘儀」1754、1896、2009、3237、3421番を参照)、ここでは、内的な生命の状態の性質であるのは、『受け入れる者を除いてはたれ一人知りはしない新しい名』と言われているためである、なぜなら内的な生命の状態の性質は内的な生命の中にいない者らには全く知られはしないからである。主に対する愛の中にいる者たちは内的な生命の中にいるが、主の人間的なものの中に神的なものを承認する者たちを除いてはたれ一人主に対する愛の中にはいないのである(主を愛することは主の御教え〔教令〕に従って生きることであることについては、「秘儀」10143、10153、10587、10645、10829番を参照されたい)。内的な生命は霊的な生命であって、その中に天界の天使たちがいるが、外的な生命は自然的な生命であって、その中には天界にはいない者らが凡ているのである。さらに、主の御教えに従って生きて、主の人間的なものの中に神的なものを承認する者たちのもとには、内的な心が開かれ、人間はその時霊的なものとなるが、しかしそのように生きはしないし、主を承認しない者らは自然的なままにとどまるのである。(天界的な愛の中にいない凡ての者には内的な、または霊的な生命は知られはしないことについては、「天界と地獄」395−414番、「新しいエルサレムの教義」105、238番を参照されたい)。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P135
勝利を得る者に、わたしは隠れたマンナを与えよう(黙示録2・17)
’43年8月19日
イエズスは言われる。
「いつものようにわたしの眼で最愛の弟子の言葉を見つめれば、『隠れたマンナ』もわたしの言葉であることが理解される。なぜなら、マンナは霊魂の父、兄、花婿であり、最も崇高な三つの愛である、あなたたちを愛するわたしたち三位一体の愛のすべての甘美さを集めているからだ。
さてわたしは、あなたたち皆にこのマンナを降らせそれで皆を養いたい。しかし『豚に真珠を、聖なるものを犬に投げてはならない』と言われている。ところがわたしの洗礼によって洗われ、わたしの血によって贖われた人々の多くは、豚よりも卑しく犬よりも劣る。
貴女は、それを得るに値しない古代ユダヤ人たちに、砂漠でマンナが腐ったいきさつを読んだ。彼らがそれに値しなかったのは、信仰に欠け、人間的な気遣いに明け暮れていたからだ。胃袋を満たすために与えられたマンナには配慮しても霊を養うために与えられるわたしの言葉には配慮しないということが、わたしに出来るだろうか?
だからわたしは、不信仰や、官能や、けちで自分本位の配慮への傾向と共に自分のより劣勢な部分に対して勝つ者たちにマンナを与えるのだ。わたしはあなたたちの霊魂を優しさと光で満たすわたしの言葉のマンナを与える。わたしは『その上には新しい名が刻まれている白い小石』、すなわちふさわしくない人々には黙して語られない一つの真理が啓示された白い小石を与える。それはあなたたちに永遠の生命の門を開き、鍵をあなたたちに与え、わたしの天の都の門に至る道へとあなたたちを伴う真理である。
わたしは道、真理、生命である。わたしを措いてその他には道も、真理も、生命もない。わたしに従うために、すべての障害に勝つ人はわたしの神殿の柱になるだろうし、人間を滅びに導く誘惑の恐ろしい時から救われたのちに、守護し実行した言葉によって、わたし自身の玉座に、父と子と聖霊と共に席を得るだろう」。