霊的な試練は主から真理と善との良心を

受けた者たちによってのみ経験される

 

 

 

 

 

天界の秘義762

 

 しかし霊的な試練は現今殆ど知られていない。またそれは以前ほどに許されてもいない、それは人間は信仰の真理の中にはいないし、それで屈服してしまうためである。これらの試練に代って自然的な身体的な原因から生まれている不運、悲哀、心労といった他のものがあり、また人間の幾多の快楽と欲念の生命をある程度押さえ、破って、彼の思いを内的な宗教的な主題に方向づけ、高揚させるところの身体の病気、疾患といった他のものもあるのである。しかしこれらは霊的な試練ではなく、霊的な試練は主から真理と善との良心を受けた者たちによってのみ経験されるのである。良心はそれ自身諸々の試練の面であり、その中に試練が行われるのである。

 

 

 

天界の秘義4298

 

霊的試練は良心の呵責以外の何ものでもなく、従って良心を持っている者を除いてはたれ一人試みられることは出来ない。

 

 

 

新エルサレムの教義139

 

良心を持った者を除いては何人も霊的な試練には入れられない。(847)

 

 

 

天界の秘義1668

 

 良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくるのであって、認識が内的なものであればある程、苦痛は激しくなるのである。

 

 

 

 

天界の秘義4299

 

 「ペニエル」・・・ヤコブが天使と戦ったところの地名

 

 良心を持っている者を除いてはたれ一人試みられることは出来ない。なぜなら霊的な試練は良心の呵責以外の何ものでもなく、従って天的な霊的な善の中にいる者を除いてはたれ一人試みられることは出来ないからである。なぜならこれらの者は良心を持っているが、他の者はことごとくそれを持っていないのであり、良心とは何であるかを知りさえもしていないからである。良心は主から発している新しい意志と新しい理解であり、かくてそれは人間における主の臨在[現存]であり、しかもその臨在はその人間が善または真理に対する情愛の中にいるに比例して近くなっているのである。もし主の臨在がその人間が善または真理に対する情愛の中にいる比率以上に近いならば、その人間は試練に入ってくるのである。その理由は、その人間の中にある悪と誤謬とがその者の中に在る善と真理とにやわらげられているが、臨在がさらに近づいてくるとそのことに堪えることが出来ないということである。

 

 

 

天界の秘義4299 [3]

 

試練と呵責とは主の神的な臨在を通して発生してくるため神的なものから発しているかのように見えるのであるが、それでもそれらは神的なものからまたは主から発しているのではなくて、試みられ、または責めさいなまれている者の中にある悪と誤謬から発しているのである。なぜなら主からは善であり真であり、慈悲である聖いもの以外には何ものも発しないからである。善であり真で慈悲であるこの聖いものは悪と誤謬の中にいる者らの堪えることの出来ないものである。なぜならそれらは対立したものであるから。悪と誤謬と無慈悲とはこれらの聖いものに暴行を加えようと絶えず熱中しており、それらのものを攻撃するに比例して責め苛まれるのである。

 

 

 

天界の秘義2041

 

「あなたらはあなたらの陽の皮の肉に割礼を施さなくてはならない。」これは自己への愛と世への愛とを遠ざけることを意味していることは、『割礼』の表象と意義とが汚れた幾多の愛から清められることであり(そのことは2039番に説明した)、また『肉』の意義が人間自身のものであることから明白である(このことは前の999番にとり扱った)。人間自身のものは自己へのまた世への愛以外の何ものでもなく、かくてそこから派生してくるあらゆる欲念であり、そしてそれはいかに汚れたものであるかは第一部に示されたところである(141、150、154、210、215、694、731、874−876、987、1047番)。遠ざけられねばならない人間のこの人間自身のものが意味されているため、『陽の皮の肉』の表現が用いられているのである。

 

 

 

天界の秘義2041[2]

 

主から発している天界的愛の流入を妨害している二つの所謂愛とその愛の欲念とが存在している、なぜならこれらの愛が内的な人を、また外なる人を支配し、それらを占有すると、それらはその流入してくる天界の愛を斥けるか、窒息させるかしてしまい、またそれを歪め、汚してしまうからである、なぜならそれらは主の神的慈悲の下に後に示されるように、天界の愛に全く相反しているからである。しかしこれらの愛が遠ざけられるに正比例して、主から流入してくる天界的愛[天界の愛]が内的な人の中に現れはじめ、いな、光を与えはじめ、かれは自分が悪と誤謬の中にいることを認めはじめ、つぎに自分が現実に[まことに]清くないものと汚れたものの中にいることを認めはじめ、ついにはそれが自分の自分自身のものであったことを認めはじめるのである。再生しつつある者とは、これらの愛が遠ざけられつつある者である。

 

 

 

天界の秘義2041[3]

 

この遠ざけられることは再生していない者らのもとにもまた認めることができるのである、なぜならかれらが不幸になり、健康を害し、病気になったとき、とくに今にも死のうとしているとき、起ることではあるが、かれらが聖いもの思いにふけっているとき、またはいろいろな欲念が静められているとき往々起ってくるように、こうした愛のいろいろな欲念がかれらの中に静止していると、そのときは、身体の、また世の事柄は静まって、いわば死んだようになっているため、かれらは多少天界の光を、またそこから生まれてくる慰めを認めるのである。しかしこれらの人物のもとでは問題の欲念は遠ざけられているのではなくて、たんにそれらが静まっているにすぎないのである、なぜならかれらはその以前の状態に帰って行くと、直ぐにもその同じいくたの欲念に再び帰って行くからである。

 

 

 

天界の秘義2041[4]

 

悪い者のもとにもまた、身体のまた世のものは静められることが出来、その時彼らは一種の天界的なものの中へいわば引き上げられることが出来るのであって、こうしたことは他生における霊魂たちのもとに起るのであり、特に世に生きていた間に天界について非常に多くのことを聞いていたため、主の栄光を見ようと切望している新しく着いたばかりの者たちのもとに起るのである。前に言及した外なる者はその時彼らの中に静まってしまっており、そのようにして彼らは第一の天界に連れて行かれて、彼らの欲望を楽しむのである。しかし彼らは長く止まっていることは出来ない、なぜなら身体のまた世のものが単に静止しているのみであって、天使たちのもとにおけるように、それらのものが遠ざけられてはいないからである(このことについては541、542番を参照されたい)。天界的な愛〔天界の愛〕は主から人間の中へ絶えず流れ入っていて、それらの愛の幾多の欲念とそこから派生してくる幾多の誤謬を除いては、他の何ものもそれを妨害し、妨げはしないのであり、また人間にそれを受けることが出来ないようにさせもしないことを知らなくてはならない。