心臓と肺臓としての教会
天界と地獄305
注2
聖言が存在し、聖言により主が知られている教会は、聖言が存在しないで、主が知られていない教会外の人々に対しては、人間の中の心臓と肺臓とが、その心臓と肺臓とをその生命の源泉として生きている身体の他の部分に対すると同じ関係におかれている、637、931、2054、2853、
天界と地獄328
主の教会は全地球に広がっており、かくて普遍的なものであり、己が宗教に従って仁慈の善に生きた者は凡てその中におり、聖言が在って、それにより主が知られている教会は、その教会の外にいる者たちに対しては、人間の身体の内蔵と器官との一切が、その形、位置、連結に従って、色々に生きている源泉となっている心臓と肺臓のようなものであることは、前に見ることが出来よう。
天界と地獄308
聖言が存在していない教会外の者とも天界は聖言により連結しており―なぜなら主の教会は普遍的なものであるから―神的なものを承認して、仁慈に生きている凡ての者とも連結している。これらの者はまた死後天使たちから教えられて、神的諸真理を受け入れるが、その主題については、以下の異邦人を取扱う章で、更に多くのことを見ることが出来よう。地上の教会全体は、主の眼前には、丁度天界のように一人の人間として存在しているが(59−72参照)、しかし聖言の存在している教会は、その人間の中の心臓と肺臓となって存在している。身体全体の内蔵と器官とは心臓と肺臓から色々と派生したものにより生命を得ていることは知られているが、人類の中で、聖言が存在している教会外にいて、その人間の器を構成している者たちも同じような生き方をしている。天界が聖言により遠くにいる者たちと連結していることは、光が中心から周囲の凡て
へ放射しているのに譬えることが出来よう。神的な光は聖言の中に在り、そこに主は天界と共に現存され、その現存から遠方にいる者たちもまた光の中にいるのであり、もし聖言がないなら、そうしたことはないであろう。このことは、天界の形について―その形に従って天界の各部分は交わり、また連なっているが―前に述べたことから更に明らかとなる。しかしこのアルカナは霊的な光にいる者たちに理解されることは出来るが、自然的な光にしかいない者には理解されることは出来ない、なぜなら霊的な光の中にいる者たちは、自然的な光の中にしかいない者には見えないところの、または見えてもただ一つの不明確な物としか見えない無数の物を明らかに見ているからである。
聖書105
しかし主と天界とが聖言によって全地の中にいかようにして現存し、また連結しているかを今述べよう。主の前には天界全体は一人の人間のようになっており、教会もそうである。それら〔天界と教会〕が事実一人の人間として現れていることは「天界と地獄」を扱った著作に見ることが出来よう(59−86)。この人間の中で、聖言が読まれ、主がそれによって知られている教会は心臓と肺臓として存在しており、即ち天的王国は心臓として、霊的王国は肺臓として存在している。
聖書105〔2〕
人間の身体の生命の二つの源泉から他の凡ての肢体と器官が存続し、生きているように、全地にあって、何らかの種類の宗教を持ち、一人の神を拝して、正しく生き、そのことによってかの人間の中におり、心臓と肺臓とを包含している胸部の外側にあるその部分と器官とに相応している者たちも凡て、主と天界が聖言によって教会と連結していることから存続し、生きているのである。なぜなら教会の中の聖言は、それは比較的少数の者のもとにしか存在しないものの、主から天界を通して、他の凡ての者の生命となっており、それは丁度心臓と肺臓とから全身の部分と器官とに対する生命が発しているのに似ており、類似の伝達が存在しているからである。
聖書105〔3〕
これが聖言を自分たちの間で読んでいるキリスト教徒によりその人間の胸部が構成されている理由である。彼らは凡ての者の真中におり、その周囲には教皇派がおり、教皇派の周囲には更に主を最大の予言者として、神の子として承認している回教徒がおり、回教徒の彼方にはアフリカ人がおり、他方アジアの諸国民と諸民族及びインド人は最も遠方の領域を構成している。彼らがこのように排列されていることについては多少のことを最後の審判にかかわる小著に見ることが出来よう(48番)。更にその人間の中にいる者たちはすべて、そのキリスト教徒たちのいる真中の地域の方を眺めている。
ヨゼファ・メネンデス 『愛の招き』P26
“わたしの聖心の鼓動の一打ち、一打ちは、一つの霊魂を呼んでいるのである。”(1922年10月26日)