慎重

 

1.聖書

2.慎重

3.狡猾

 

 

 

 

1.聖書

 

 

エレミヤ15・19

 

それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら

わたしのもとに帰らせ

わたしの前に立たせよう。

もし、あなたが軽率に言葉を吐かず

熟慮して語るなら

わたしはあなたを、わたしの口とする。

あなたが彼らの所に帰るのではない。

彼らこそあなたのもとに帰るのだ。

 

 

 

マタイ10・16

 

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

 

 

 

 

2.慎重

 

仁慈の教義164(5)

 

軍の司令官により、その軍の最高の役員が、その者が王であれ、または大公であれ、またはその者たちから権威を得ている法規上の司令官であれ、そうした者が意味されている。もし彼が主に目を注ぎ、悪を罪として避けるなら、またもし彼がその将軍としての任務と、命令の事柄において誠実に、公正に、忠実に行動するなら、彼は仁慈の善である用の善を行うのである。そして彼は、絶えずその用の善に思いをひそめ、それに自分自身を適用させて、それを実行するにつれ、仁慈となるのである。もし彼が王または大公であるなら、彼は戦争を愛しはしないで、平和を愛し、戦争においてすら絶えず平和を愛しているのである。彼は彼の国を防禦するためでない限り、戦争に訴えはしないのであり、かくて彼は侵略者ではなくて、防禦者である。しかし後になって、戦争が始まった時、もし侵略することが防禦となるなら、彼はまた侵略者ともなるのである。戦争において、もし彼がそれ以外のものとして生まれていないなら、彼は勇気があり、英雄であるが、しかし戦争の後では、柔和で慈悲深いのである。彼は進んで獅子ともなるが、戦争の後では、子羊となるのである。彼はその内なる自分の中では敵の壊滅と勝利の名誉に喜び躍りはしないが、彼の国と彼の民とが敵の侵略から救い出され、また彼らの加える破壊と破滅から救い出されたことに喜び躍るのである。彼は慎重に行動し、家族の父がその子供たちと召使いのために心を砕くように、その民のために忠実に心を砕き、彼らの各々の者を、その者がその義務を誠実に、また勇敢に行うに従って愛し、その他そうした多くの事柄を行うのである。彼のもとでは狡猾は狡猾ではなく、慎重である。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P46

‘89・11・26

 

子よ、あなたに平和、聴きなさい、慎重に振舞い、この啓示からでないことには触れないように、この啓示と 聖書にあるみことばを用いなさい、私はあなたの師です、慎重に振舞いなさい ♡ 私に頼っているように。 私は(I am)あなたの救い主。 あなたの聖なる者(I am)。 私は(I am)在りて在る者です ♡ そこで私に頼っているとよいではないか? 微笑みかけるなら 私を喜ばせる、子どもっぽい信仰を愛している ♡ ヴァッスーラ、勇気を持ちなさい、敵をすべて打ち倒そう、勇気を 娘よ、追放の地 そして死の谷で生きるのが辛いのは分かっている、しかし私の愛を確信していなさい、傍らにいて 最も些細な事柄であっても助けよう。 愛があなたを愛している

 

 

3.狡猾

 

天界の秘義6655

 

「さあ、私たちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)

 

これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。

悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、彼らの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。

このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。すなわち、彼らは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、彼らの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜなら彼らはその隣人に対しては善以外には何ごとも願ってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それを赦すからである。悪にいる者らはそうではない。彼らはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜなら彼らは隣人に対しては悪以外には何ごとも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただ上辺のみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜなら彼らは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それを惹き付ける強い、隠れた力を持っていることを知っているからである。