深慮
1.深慮を自分自身に帰するに比例して、その者は益々発狂する
2.凡ての物を自然に帰す者は心に神を否定し、凡ての物を人間の深慮に帰す者は心に神的摂理を否定
3.深慮の起原
1.深慮を自分自身に帰するに比例して、その者は益々発狂する
天界の秘義1936[5]
たれでも知恵は些かも自分自身から発してはいないと信じるに比例して、その者は賢明になるということ、知恵が自分自身から発していると信じ、かくして深慮を自分自身に帰するに比例して、その者は益々発狂するということもまた神的な真理である。この事をまた合理的なものは、それ自身から発していないものは無意味なものであると考えているため、否定してしまうのである。こうした無数のものが存在している。これらの僅かな例からでさえも合理的なものは信じてはならないことを認めることができよう、なぜなら合理的なものは迷妄[妄想]と外観の中にあり、それでそれは迷妄と外観とを剥ぎとられた真理を斥けてしまい、それがそうしたことを行えば行うほど、益々自己愛とそのいくたの欲念に陥り、益々理論に陥り、また信仰については誤った原理に陥るのである(前の1911番に引用した例を参照されたい)。
2.凡ての物を自然に帰す者は心に神を否定し、凡ての物を人間の深慮に帰す者は心に神的摂理を否定
神の摂理201[4]
「主はその神的摂理により全人類の諸情愛を人間の形である一つの形に排列される」。
これは神的摂理の普遍的な法則であることは後節に見られるであろう。凡ての物を自然に帰す者は、また凡ての物を人間の深慮に帰している。なぜなら凡ての物を自然に帰す者は心に神を否定し、凡ての物を人間の深慮に帰す者は心に神的摂理を否定し、この二つの否定は不可分離のものであるから。しかし二つの部類の人間とも、自分の名声とそれを失う恐れから、神的摂理は普遍的なものであるが、微細な事は人間に依存しており、この微細な物の集積したものが人間の深慮により意味されるものであると言っている。しかしもし微細な事が普遍的な摂理の支配から取り去られるなら、それはいかようなものになるかを考えられよ。それは空虚な言葉でなくて何であろう。なぜなら全般的な物はその個々の物から存在するように、普遍的なものはそれを構成している微細なもの凡てから成っているからである。それ故、もし諸君が微細なものを取り去るなら、普遍的なものは、内側には何もない表面か、または組生物のない複合体のような空ろな物でなくて何であろう。
神の摂理205[6]
「自然と人間の深慮のみを承認した者は地獄を構成し、神とその神的摂理を承認した者は天界を構成している」。
悪い生活を送っている者は凡て自然と人間の深慮のみを内的に承認している、これを承認することが凡ゆる悪の中に、いかほどその悪が善と真理で覆われていても、秘かに隠れている、この善と真理はたんに、悪が赤裸々に現れるのを恐れて、着けた借着にすぎず、または朽ちる花環のようなものである。それがそのように全般的に隠されていることにより、悪い生活を送る者は凡て内的には自然と人間の深慮のみを承認していることは知られていない、なぜならその事実はその覆いにより隠れているからである、しかしそれにも拘らず彼らはそれを承認していることはその承認の起源と原因とを説明し、次に神的摂理の起源と性質を説明し、次に前者または後者を承認する者の性質と性格とを説明し、最後に神的摂理を承認する者は天界におり、自分自身の深慮を承認する者は地獄におることを示すことが必要である。
3.深慮の起原
神の摂理206
さて自己愛がその配偶者の理解をそれ自身の愛をもって刺激すると、その理解はその理解の中で、人間自身の理知の誇りという誇りとなり、これが人間自身の深慮の起原である。
神の摂理197[2]
「人間の生命を構成する愛から発する諸々の情愛は主にのみ知られている」人間は自分自身の思考を知り、思考から意図を知っている、なぜなら彼は彼自身の中にそれを認めるからである、そして深慮は凡てこれらを手段として存在するため、彼は深慮もまた自分の中に存在するものとして認めている。それ故もし彼の生命の愛が自己への愛であるなら、彼は自己の理知の誇りを得て、深慮を自分自身に僭取する。彼はまたそれを支持する