心労

 

天界の秘義762

 

 しかし霊的な試練は現今ほとんど知られていない。またそれは以前ほどに許されてもいない、それは人間は信仰の真理の中にはいないし、それで屈服してしまうためである。これらの試練に代って自然的な身体的な原因から生まれている不運、悲哀、心労といった他のものがあり、また人間のいくたの快楽と欲念の生命をある程度押さえ、破って、かれの思いを内的な宗教的な主題に方向づけ、高揚させるところの身体の病気、疾患といった他のものもあるのである。しかしこれらは霊的な試練ではなく、霊的な試練は主から真理と善との良心を受けた者たちによってのみ経験されるのである。良心はそれ自身諸々の試練の面であり、その中に試練が行われるのである。

 

 

天界の秘義3660[3]

 

なぜなら天使たちと霊たちとの思考[考え]はかれらが前に人間として世に生きていた時とは異なって世的な、形体的な、地的な物に対する心労により乱されはしないからである。

 

 

天界の秘義4274

 

しかしいかような試練もその人間が真理の善の中に、すなわち、真理を愛する愛または情愛の中にいないかぎり、起ることはできない。なぜなら真理を愛しない者は、または真理により感動しない者は、真理を何ら意に介しはしないが、それを愛する者はそれが害されはしなかと不安を感じるからである。人間が真であると信じるものを除いては他の何ものも人間の理解の生命を生み出しはしないし、また人間が善いものとして自分自身に印刻したものを除いては何ものもかれの意志の生命を生み出しはしないのである、それでかれが真のものであると信じているものを攻撃されると、かれの理解の生命は攻撃され、かれが善いものとしてかれ自身に印刻したものが攻撃されると、かれの意志の生命は攻撃されるのであり、それで人間が試みられているとき、かれの生命は危機にさらされるのである。争闘の最初のものは真理の方面のものであり、または真理に関わるものであるのは、それがかれが第一次的に愛するものであり、たれであれその者の愛のものであるものが悪霊らにより攻撃されるが、しかしその人間が真理よりもさらに善を愛する後では―そのことは秩序が転倒するとき起るのであるが―かれは善の方面で試みを受けるからである。しかし試練の何であるかは僅かな者しか知っていない、それは現今では僅かな者しか試練を受けはしないためである、なぜなら信仰の善の中に、すなわち、隣人に対する仁慈の中にいる者以外の者は一人として試みられることはできないからである。もしこの仁慈の中にいない者がかりにも試みられるなら、その者は直ぐさま屈服し、そして屈服する者は悪を確認し、誤謬を確信するのである、なぜならそのようにしてその者らが共に結合する悪霊らはそのときその者らの中にあって屈服するからである。このことが現今では僅かな者しか霊的な試練へ入れられはしないで、ただ単に何らかの自然的な心労にのみ入れられるが、その自然的な心労にのみ入れられるのは、そのことによってかれらが自己をまた世を愛する愛から引き出されるためであり、もしそうした心労がないなら、かれらは抑えられはしないでその愛へ突入してしまう理由である。

 

 

天界の秘義4352[3]

 

愛と仁慈との善を通して流れ入ってくるもの以外には霊的な信頼はないのであり、またこの霊的な信頼もその人間が恐れ、苦悶し、または自己と世を求める愛から説得された信念の中にいるときに流れ入るものではなくて、かれが自由の状態の中にいるときに流れ入ってくるものであり、またその者の中に善が真理と連結していて、前の生命の歩みによって根をはっている者たち以外の者のもとには流れ入りはしないのであり、かくて病気や不幸や人生の危機やまたは死が切迫しているときに流れ入りはしないのである。もし強制された状態に現れるこうした信頼または信任が人間を救うなら人間はすべて救われるであろう、なぜならこうした種類の信頼ならたれでも容易に強いられることができ、主は凡ての者の救いを願われるからには、主からそれを与えられはしない者は一人もいないからである。

 

 

 

天界の秘義7217

 

「心の苦しさのあまり*」

 

*または『息切れがして』

 

これは、絶望に近い状態の理由により、を意味していることは、『心の苦しさ』の意義から明らかであり、それは絶望に近い状態である、なぜならこうした状態にいる者たちは心が苦しむからである。この状態はパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷、即ち、彼らは煉瓦を作る藁を彼ら自身で探さなければならないという重荷により意味されていることは、前章の終わりに示されたところである。心の苦しさは絶望に近い状態を意味していることは、絶望に近い状態にいる者たちは内なる心労をなめ、その時は事実息切れがするという事実から

認めることが出来る。外なる意味ではこの状態〔息切れの状態〕は胸が押さえつけられて、そのため謂わば呼吸困難に陥ることであるが、内意ではそれは信仰に属した真理と仁慈に属した善とを剥奪されるために生じる心労であって、そこから絶望に近い状態が起きるのである。(呼吸が圧迫される状態と信仰の真理と仁慈の善とを剥奪されて起きる心労とは、心における霊的な原因から生じる身体内の自然的な結果として、相互に相応していることは、前に示したことから認めることが出来よう、97、1119、3886、3887、3889、3892、3893番)。霊的な真理と善とを剥奪されると、こうした心労が生まれ、従ってこうした苦しさが生まれることは、信仰と仁慈とにいない者によっては信じられる事は出来ない、なぜならそうした者は、こうした理由で苦しむことは心が軟弱で病んでいるからであると考えるからである。その理由は、彼らは実質的なものを何一つ信仰と仁慈に置かず、それでその霊魂と天界とに属するものにも置かず、単に富と卓越することにのみ置き、かくて身体と世の事柄にのみ置いているということである。彼らはまた(以下のように)考えるのである、『信仰と仁慈とは単なる言葉でなくて何であろう。良心でさえもが何であるか。こうしたものにより苦しい思いをなめることは、人間が愚かにもその空想から作り出したものから自分の中に見るものにより、即ち、何ら存在もしていないのに、何か存在していると想像しているものにより苦しめられることと同じである。富と高い地位は私らは目で見ることが出来、またそれらはそこから提供される快楽から存在していることを私らは知っている、なぜならそれらは私らの全身をのびのびとさせ、また充分な喜びをそこにかき立てもするからである』。このように単に自然的な人間は考え、またこのように実際彼ら自身の間では話しているのである。しかし霊的な人間はそのようには考えはしないのである、なぜならこうした者たちはその霊の中に、かくてその霊に属したものの中に、即ち、信仰と仁慈の中にその主要な生命を得ており、それで自分自身が信仰と仁慈との諸真理と諸善とを剥奪されると信じると、死の苦悶をなめている者のようにも、悶えるのである、なぜなら彼らは己が前に霊的な死を、即ち、堕地獄を見るからである。前に言ったように、単に自然的な者にはこうした人物は心では弱く、病的なものであるように見えはするが、しかし彼らは強く、また健康なのであり、之に反し単に自然的な者らは自分自身には強く健康なものであるように思われ、また〔事実〕身体の方面では強く、健康ではあるものの、霊の方面では、〔即ち〕霊的には死んでいるため、全く弱いのである。もし彼らが自分はいかような種類の霊を持っているかを見ることが出来るなら、それがそうであることを承認するであろう、が、彼らは死んでしまうまではその霊を見はしないのである。