信仰のみの中にいる者らは良心の何であるかを知らない
霊界日記5731
しかしそのことは無意味であった、なぜなら彼らはその内部へ入れられたが、その内部は、いかような良心をも欠いているといったものであったからであり、そのこともまた証明されたのである、実に、彼らは良心の何であるかを知りはしなかったのである。それで、こうしたものが信仰のみの中にいる者らであった。それで、いかような仁慈の中にもいない、そうした者らの凡ては、巨万の無数の者にも達していたが、発見され、多くの山と平原から完全に投げ落とされ、地獄へ投げ込まれてしまった。
霊界日記5734
それでも、彼らは以下のことを知らなくてはならない、すなわち、凡ゆる宗教の人間でも、信仰のみの教義の中にいる者らでさえも、仁慈の生活である信仰の生活を送りさえするなら、かくして悪魔的なものであるような事柄を自分自身の中に内的に己がものとしてしまわないさえするなら、救われることが出来るのである。外なるものは無意味である、なぜなら、その外なるものが分離するなら、そのときは生命を構成するものは彼らの内なるものであって、内なるものを欠いた外なるものではないからである。私はそのことを彼らに公然と言明することを命じられたのである。
霊界日記5855
私はしばしば、他生にいる者らについて、彼らは良心とは何であるかを知らず、かくて千人の中ほとんど一人さえもそのことを知ってはいないことを認めもし、聞きもしたのである。天使たちはそうした無知が何処から発しているのか、と怪しんだが、しかしその理由が明らかにされたのである、すなわち、教会の人間は、善を、引いては、業を無意味なものとしており、そうしたものを無意味なものとしている者は決して良心とは何であるかを知ることは出来ないのである、なぜなら良心は、人が神の戒めに反したことを行ったために、また人がその戒めに反したことを考えたために悲しむことであるからである。このことから現今のキリスト教徒の性質が明らかであり、それはほとんど宗教を欠如しているのである、なぜなら宗教をもち、神的な事柄を愛する者は良心を持っているからである、なぜなら彼は、もし彼が何か神的なものに反したことを考え、意図したとするなら、ましてや、そうしたことを行ったとするなら、苦痛を経験するからである。
生命を目的としない者は、信仰のみを目的としているため、良心とは何であるかを決して知りはしない、かれは良心とは何であるかを尋ねはするが、それでも把握はしない、なぜなら彼は、善い業は救いには何ら貢献はしない、と信じているからであるが、それでもそうしたものは生命のものであり、信仰の知識は、信じられていると考えられてはいるものの、もしそれがそれを意志し[欲し]行うことにより生命に植えつけられていないなら、単に記憶の中に在るにすぎないのである。