信仰の真理

 

1.人間が再生するのは信仰の諸真理によっており

2.信仰の真理は先ず記憶知における信仰の真理となり

3.それらを始めて学んでいる者たちのもとでは、それらは単に記憶知にすぎない

4.不潔なものから清められることは信仰の諸真理を通して行なわれる

 

 

1.人間が再生するのは信仰の諸真理によっており

 

天界の秘義1077

 

 ここに『ハム』と『カナン』と呼ばれている者らは、すなわち仁慈から信仰を切り離し、かくして礼拝を外なるものの中にのみ存在させる者らは、良心とは何であるかを、それは何処から発するかを知ることができないことを簡単に示さなくてはならない。良心は信仰の諸真理により形作られるのである。なぜなら人間が聞いたり、承認したり、信じたりしたものが人間の中に良心を作るからであって、その後でそれに反して行動することは、たれにも充分明白であるように、その者には良心に反して行動することになるのである。それゆえ人間が聞き、承認し、信じるものが信仰の諸真理でない限り、人間は決して真の良心を持つことはできないのである。なぜなら人間が再生するのは信仰の諸真理によっており(主は仁慈の中に働かれているのであるが)、それで人間が良心を受けるのは信仰の諸真理によっており、良心は新しい人間自身であるからである。以下のことが明白である。すなわち、信仰の諸真理はその者が信仰が教えることに従った人間となり、またはそうした人間として生きることができる手段であり、信仰の第一次的なものは主を凡ゆる物にまさって愛し、隣人を自分自身のように愛することである。もしかれがそのように生活しないならば、その者の信仰は空しいもの、単なる仰々しい言葉、あるいは天界的生命から分離したものでなくてなんであろうか、そしてそれがそのように分離するなら救いはその中にはありえないのである。

 

 

2.信仰の真理は先ず記憶知における信仰の真理となり

 

天界の秘義3869

 

すなわち、何であれ耳と目により、または聞くことと見ることとによって入るものはことごとくかれの理解の中へ入って行き、理解を通って意志へ入り、意志から行動へ入っているのである。それと同じように信仰の真理は先ず記憶知における信仰の真理となり、後に意志における信仰の真理となり、最後に行為における信仰の真理となり、かくて仁慈となるのである。記憶知におけるままたは理解における信仰は、すでに示されたように、『ルベン』であり、意志における信仰は『シメオン』であり、意志における信仰が仁慈となるとき、それが『レビ』である。

 

 

3.それらを始めて学んでいる者たちのもとでは、それらは単に記憶知にすぎない

 

天界の秘義5951

 

人間、霊、または天使の外側にある信仰の諸真理は信仰の諸真理ではない。なぜならそれらはいかような主体にも適用されてはおらず、主体の中に在る時、信仰の諸真理となるからである。しかしそれらが主体としての人間、霊、または天使に適用されると、そのとき始めて信仰の諸真理となるが、しかしそこには各自の生命の状態に応じた相違が在るのである。それらを始めて学んでいる者たちのもとでは、それらは単に記憶知にすぎないのである。その後もしこの人々が敬虔にそれらを尊ぶなら、その諸真理はさらに進展して、教会の真理となるのである。そしてかれらがその諸真理に感動して、それらに従って生きるとき、それらははじめて霊的な諸真理となるのである。なぜなら霊界からのみ発している愛と仁慈との善が、そのときその諸真理に満ちて、その諸真理を生かすからである。なぜならそれらに感動して、それらに従って生きることはこの善から発しているからである。信仰の諸真理と呼ばれている諸真理に従って生きている者とそれに従って生きていない者とにおけるその諸真理の性質がわたしに示されたのである。

 

 

4.不潔なものから清められることは信仰の諸真理を通して行なわれる

 

天界の秘義5954[10]

 

 不潔なものから清められることは信仰の諸真理を通して行なわれるのである。なぜなら信仰の諸真理が善とは何であるか、仁慈とは何であるか、隣人とは何であるか、信仰とは何であるかを教え、また主がおられ、天界が在り、永遠の生命の在ることを教えるからである。教える真理がないなら、これらのものの何であるかは知られないし、またその在ることさえも知られないのである。たれが自分自身からでは、自己への愛と世への愛の善が人間にぞくしている唯一の善であるとしか知りはしないか、なぜならその二つがかれの生命の歓びであるからである。そしてたれが信仰の諸真理によらなくては、人間に適用されることのできる他の善の在ることを、すなわち、神に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善の在ることを、その善の中に天界の生命の在ることを、またこの善は人間が自分自身を他の者以上に愛しないに応じて、世を天界以上には愛しないに応じて主から天界を通して流れ入ってくることを知ることができよう。この凡てから着物を洗うことにより表象された浄めは信仰の諸真理を通して行なわれることが明白である。