死んだ者

 

 

 

 

啓示による黙示録解説639

 

『試練』によりここでは、主に対する信仰を持ち、主の戒めに従って生きている者たちのもとに、その者たちがその者たちの欲念と一つのものとなって活動しているところの、その者たちのもとにいる悪霊を追い出す時、存在する霊的試練が意味されている。これらの試練が以下の『十字架』により意味されている―

 

 己が十字架を取らないで、わたしに従う者は、わたしにふさわしくはない(マタイ10・38)。

 イエスは言われた、たれでもわたしに従って来ようとするなら、自分自身を否定し、、その者の十字架を取って、わたしに従わなくてはならない(マタイ16・24、ルカ9・23−25、14・26、27)。

 

またパウロの『肉を十字架につけること』によっても意味されている―

 

 キリストのものである者たちはその肉をその情欲と欲念とともに十字架につける(ガラテヤ5・24)。

 

己が魂を苦しめ、己が肉を十字架につけ、試練を受けた者たちが『死んだ者』により意味されている理由は、そのことにより彼らは己が以前の生命を苦しめ、そのため世の前ではいわば死んだ者のようになっているためである、なぜなら主は以下のように言われているからである―

 

 一粒の麦が地に落ちて死ななくては、ただ一つのままに止まるが、しかしもしそれが死ぬなら、多くの果を結ぶのである(ヨハネ12・24)。

 

ヨハネ伝の『死んだ者』によってもまたそれ以外の者は意味されてはいない―

 

 イエスは言われた、父が死んだ者をよみがえらせて、生かされるように、子もその欲する者を生かすのである(ヨハネ5・21)。

 

同書に―

 

 イエスは言われた、死んだ者が神の子の声を聞いて、生きる時が来る(ヨハネ5・25)。

 

また『死人のよみがえり』(ルカ14・14、黙示録20・5、12、13)によっても、他の所でもそのことが意味されている。前(106番)を参照されよ。ダビデの書には―

 

 エホバの目にはその聖徒たちの死は貴い(詩篇116・15)。

 

 イエスはまた言われた、わたしのためにその魂を失う者は、それを見出すでしょう(マタイ10・39、16・25、ルカ9・24、25、17・33、ヨハネ12・25)。