1.聖書

2.僕

3.銀で買われた者

 

1.聖書

 

マタイ20・25−28

 

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 

2.僕

 

啓示による黙示録解説3 

 

 「僕たち」・・・ここでは仁慈から発した信仰の中にいる者たち

善から発した真理の中にいる者たち

愛から発した知恵の中にいる者たち

仁慈から派生した信仰の中にいる者たち

僕により真理が意味されている。

 

 

啓示による黙示録解説3

 

このことを主が言われるのは、僕と仕える者とにより、教えることによって僕となり、仕える者が意味され、人物から抽象して、主御自身であった神的真理が意味されているためである。それで僕により神的真理を教える者が意味される以上、黙示録のこの所の僕たちにより善から発した真理の中に、または仁慈から発した信仰の中にいる者たちが意味されていることは明白である、なぜならこれらの者は主から教えることができるからである、すなわち、主は彼らを通して教え、仕えられることができるからである。この意味でかれらはマタイ伝で僕たちと呼ばれている―

 

 代の終りに、主がその家族の者にその食物を時に及んで与えるために、その家族の者の上に立てられる忠実で、思慮のある僕はたれであろうか。幸なるから、主が来られるとき、そのように行っているのを主から見られるその僕よ(マタイ24・45−46)。

 

またルカ伝には―

 

 幸なるかな、主が来られるとき、目を見はっているのを主から見られる僕たちよ、まことに、わたしはあなたたちに言う、かれは自分に帯して、かれらを(いすに)よりかからせ、自ら近づいてきて、かれらに仕えるであろう(ルカ12・37)。

 

天界では主の霊的王国にいる者たちは凡て主の僕と呼ばれてるが、主の天的王国にいる者たちは仕える者(ミニスタズ)と呼ばれている、その理由は、主の神的真理から知恵の中におり、主の天的王国にいる者たちは神的善から愛の中におり、善は仕え、真理は僕の役(サーブ)を務めるということである。

 

 

天界の秘義2159

 

『僕』は主に属した人間的なものを、すなわち、それが神的なものになされる前の、その人間的なものを意味していることは、予言者の書の多くの記事から認めることができよう。その理由は―すでにいくどもしめしたところではあるが―主がそれを脱ぎ棄てられてそれを神的なものにされるまでは、その主に属した人間的なものは単に僕にすぎなかったということである。主に属した人間的なものは母から来ており、かくてそれは脆いものであって、そのもとには遺伝的なものを持っていたのであるが、主はその遺伝的なものをいくたの試練の争闘により征服され、全く斥けられ、かくて母から来ている脆い、遺伝的なものは何一つ残らなくなったのであり、いな、最後には母から来たものは何一つ残らなくなったのである。かくて主は母から来ているものはことごとく脱ぎ棄てられ、それで主御自身もまたマルコ伝に言われているように、もはや母の子ではあられなかったのである―

 

  かれらはかれに言った、見よ、あなたの母とあなたの兄弟とは外であなたをたずねています、かれはかれらに答えて言われた、わたしの母とは、またはわたしの兄弟とは誰ですか。かれはかれのまわりに坐っていた者たちを見まわされて言われた、見なさい、わたしの母とわたしの兄弟たちを、たれでも神の御意志を行う者は、その者こそわたしの兄弟であり、わたしの姉妹であり、またわたしの母である。(3・32−35、マタイ12・46−49、ルカ8・20−21)。

 

 

天界の秘義2019                     

 

『家の長老である僕』は自然的なものであり、または自然的な人であることは、『僕』の意義から明白であり、それは低いものであり、また高いものに仕えるものであり、またはそれと同一のものであるが、外なるものであり、内なるものに仕えるものである(2541、2567番)。自然的な人に属しているものはことごとく、例えばそれがいかような種類のものであっても、そうした種類の記憶知といったものは仕えるもの以外の何ものでもないのである、なぜならそれらは合理的なものに正当に考えさせまた正しく意志させることによってその合理的なものに仕えているからである。『家の長老』は自然的な人であることは、以下の記事から認めることができよう。

 

 

天界の秘義3192

 

「僕はレベカを連れて去った」。これは自然的な神的善がそお導き入れることを遂行したことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『僕』の意義は(前の3184番のように)自然的な神的善であり、『レベカを連れて去ること』の意義は導き入れることであり、すなわち、イサクに紹介することであり、すなわち、合理的なものにおける神的善に導入することであり、このことはこれ以上説明しなくても明らかとなるであろう。

 

 

天界の秘義7998

 

「各々の人間の僕」。これは依然自然的なものである人間を意味していることは、『僕』の意義から明白であり、それは自然的なものであり(3019、3020、3191、3192、3204、3206、3209、5305番を参照)、かくて自然的な人である。自然的な人が『僕』と呼ばれているのは、僕が主人に仕え、服従するように自然的な人が霊的な人に仕え、また服従するようにされているためである。

 

 

黙示録講解478(3)

 

『かれらは昼も夜もその方にその方の神殿に仕える』(黙示録7・15)と言われているが、しかしこれはかれらが連続して神殿の中におり、または連続して礼拝と祈りの中にいることを意味してはいない、なぜならそうしたことは天界では行われはしないからである。そこでは各々の者はことごとく、世にいたときのように、その業務と仕事に携わっており、時折、世にいたときのように神殿におりはするものの、常に真理の中にいるときは、『昼も夜も神に仕える』と言われるのである。なぜなら善い霊と天使とはことごとくその者自身の真理とその者自身の善であるからである、なぜならかれらは真理と善を求める情愛であるからである。情愛または愛は各々の者の生命を構成しており、従って真理に対する情愛の中にいる者たちは、その業務、事務、職業に携わっているときでさえも、絶えず主に仕えているのである、なぜなら内部に在る情愛が絶えず支配しており、仕えているからである。さらに、このことが主が求められる奉仕であるが、絶えず神殿におり、礼拝に携わっていることが主が求められるものではないのである。神殿の中にそこの礼拝に携わってはいるものの、真理の中にいないことは主に仕えることではなく、主に仕えまつることは真理の中にいることであり、凡ゆる事の中に誠実に公正に行動することである、なぜならそのとき人間のもとに在る真理、誠実、公正の原理が主に仕えているからである。さらにこうしたものを通して―礼拝のみを通してではない―人間は世におけるその生命の後で、天界にいることができるのである、なぜならこうしたもののない礼拝は、従って真理を欠如した礼拝は空虚な礼拝であり、その中へは流入は全く見られはしないのである。聖言には『役立つ[奉仕する]』と『仕えること』が、また『召使い[僕]』と『仕える者』が記され、真理の中にいる者たちは『主の僕』、『主に奉仕する』と言われている一方では、善の中にいる者たちは『主に仕える者たち』、『主に仕える』と言われている。(真理の中にいる者たちは聖言では『僕』と呼ばれることは前の6番に、善の中にいる者たちは『仕える者』と呼ばれていることは。155番に見ることができよう。

 

 

黙示録講解695ニ

 

「報い[報酬]」は、真理と善とに対する霊的な情愛の中にいる者たちが得るところの、祝福、幸福、歓喜の方面の天界を意味し、報いはかの情愛そのものである。なぜなら天界と言うも、またはかの情愛と言うも、同じことであるから。なぜなら天界はその情愛の中にあり、そこから発しているからである。

 

(20)しかし、霊的な情愛でなく、単に自然的な情愛から真理を話し、善を行い、天界を絶えず報いとして考える者らはイスラエル教会においては「雇われた僕」により表象されたのであり、かれらについてはその教会においては多くの法令があったのである。例えば―

 

雇われた僕らは過越節のものを食べてはならない(出エジプト12・43、45)(他略)

 

 

3.銀で買われた者

 

天界の秘義7999

 

「銀で買われた(者)」。これは、何らかの霊的な真理を持っているところの者を意味していることは以下から明白である、即ち、『買うこと』の意義は取得して、己がものとすることであり(4397、4487、5374、5397、5406、5410、5426番を参照)、『銀』の意義は真理であり(1551、2954、5658番)、ここでは霊的な真理である。なぜなら買われた僕は内意では自然的な人であり、それで買う主人は霊的な人であるからである。いかようにしてこのことが生じるかは、いかようにして霊的なものがそれ自身のために自然的なものを買うかが、即ち、取得して、己がものとするかが知られない限り、知られることは出来ないのである。人間は再生しつつある時は、その内なるものと外なるものとは、即ち、霊的なものと自然的なものとは最初互に背馳しているのである、なぜなら霊的なものは天界に属したものを欲しているが、しかし自然的なものは世に属したものを欲しているからである。しかしその時霊的なものは絶えず自然的なものの中へ流れ入って、それを(霊的なものに)一致させており、そのことは真理により行われており、そして霊的なものが自然的なものの中で霊的なもの自身に持ってくるものは『銀で買われる』、即ち、真理により取得され、所有されると言われるのである。