島々

 

教会の外にいる正しい諸国民

・無知と単純と公正の中に生きているところの教会の外にいる諸国民

 

 

天界の秘義1158

 

「これらから諸々の国民の島々はその地に拡がった。」これは多くの国民の礼拝はこれらから発したこと、『島々』は個々の領域であり、かくて更に隔たった個々の礼拝であること、『地』はそれらのものの全般的なものであることは聖書の『島々』の意義から明白である。これまでは内なる礼拝に更に近づいた者たちが取扱われてきた。ヤペテの七人の息子たちにより真の内なる礼拝から更に隔たった者らが意味されたのである。『諸国民の島々』によりそれよりも更に隔たった者が意味され、互いに相互的な仁慈に生きているが、それでも無知であって、主については教会の信仰の教義的なものについては、内なる礼拝については何事も知らないが、それでも或る外なる礼拝を持ち、それを宗教的に守った者たちが元来意味されているのである。こうした者たちは聖言では島々と呼ばれており、それで『島々』により、その内意では、内なる礼拝から更に隔たっている礼拝が意味されているのである。

 

 

天界の秘義1158[2]

 

天使たちのように、聖言の内意の中にいる者たちは『島々』を何ら知っていない、なぜなら彼らはこうしたものを最早何ら考えないで、代って教会から発した諸国民の礼拝のような、更に隔たった礼拝を認めるからである。そして同じように彼らは友情と礼儀のような、教会そのものの中に在って、仁慈からは多少隔たっている事柄を認めている。友情は仁慈ではなく、まして丁重なことは仁慈ではない―これらは仁慈の下位に在る度のものであり、それらが仁慈から多くのものを得ているに応じて、益々誠実なものになっている。

 

 

天界の秘義1158[3]

 

こうした事柄が『島々』により意味されていることは聖言の以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

 

 ああ諸々の島よ、わたしの前に沈黙を守り、諸々の民にその力を再び新たにさせ、彼らを近寄らせよ。島々は見て恐れ、地の端は震えた、彼らは近づいて来た(41・1,5)。

 

ここでは島々は外なる礼拝を宗教的に守っているところの、教会の外にいる正しい諸国民を意味している。教会が存在している地域の最端は『地の端』と呼ばれている。同書には―

 

かれは地に審判を行われないうちは暗くはなく、また千々に砕かれもしない、島々はかれの律法を待ち望むであろう。海とそれに満ちたものとに降って行く者たちよ、島々とそこに住む者たちよ、エホバに向って新しい歌を、その賛美を地の端から歌えよ。彼らにエホバに栄光を与え、その賛美を島々の中に宣伝させよ(42・4、10、12)。

 

ここにもまた『島々』は無知と単純と公正の中に生きているところの教会の外にいる諸国民を示している。

 

 

天界の秘義1158[4]

 

同書には―

 

 ああ島々よ、わたしの言葉に耳を澄ませよ、遠くから来ている民よ、耳を傾けよ(49・1)。

 

これも同じく主を拝する礼拝から、また信仰の諸々の知識から更に隔たっている国民を意味しており、それで『遠くから来ている』と言われている。更に―

 

 島々はわたしに望みをかけ、わたしの腕にかしづくであろう(51・5)。

 

これも同じことを意味している。彼らは公正をもって生きている者であるため、『彼らはわたしに望みをかけ、わたしの腕にかしづくであろう』と言われている。

 

 

 

静思社/スエデンボルグ/聖書116

 

 私は、(遠い)島々に生まれて、社会的な事柄については合理的ではあったが、神については全く何ごとも知ってはいなかった人々を見ることを許されたことがある。霊界ではこうした者は猿のように見え、その生活も猿のそれに酷似しているのである。しかし彼らは、人間として生まれ、従って霊的生命を受ける能力を与えられているため、天使たちから教えられて、人間としての神を知ることによって霊的に生きたものとなされるのである。

(真の基督教274、霊界日記5822にも同)