宗教から考えはしない者らは良心を持ってはいない

 

 

 

黙示録講解107(4)

 

宗教から考えはしない者らは良心を持ってはいない、なぜなら彼らは霊的なものではなく、従って、彼らの外なる拘束するものが―それは法律と名声に対する恐怖であるが、それが―彼らのもとで弛められるなら、彼らは凡ゆる邪悪へ突入するからであるが、これに反し他方では、もし法律と世評にかかわる恐怖であるところの、外なる拘束するものが、宗教から考える者たちから仮にも取り去られるにしても、彼らは依然誠実に、公正に、善良に行動するのである、なぜなら彼らは神を恐れ、主から―その主に彼らは連結しているため、その主から―天界を通して服従と仁慈との生命[生活]の中に留めおかれているからである。

 

 

 

天界の秘義2515

 

「かれに言われた」(創世記20・3)。これはそこから発した、即ち、認識から発した思考を意味していることは、『言うこと』の意義から明白であって、それは認識することであり、また(2506番に示されたように)考えることである。認識から発した思考があったとここに言われているため、思考はいかようになっているかを簡単に述べた方がよいであろう。認識から発している思考があり、良心から発している思考があり、何ら良心が無い状態から発している思考がある。認識から発している思考は天的な者たちのもとにのみ、即ち、主に対する愛の中にいる者たちのもとにのみ存在しており、こうした思考は人間のもとに存在している最も内なるものであり、それは天界における天的な天使たちのもとに存在している。なぜならそれは主から発している認識であって、それによりまたそこから彼らの思考は存在しており、認識に反して考えることは不可能となっているからである。良心から発した思考はそれよりは低いものであって、霊的な者たちのもとに、即ち、生命[生活]と教義との方面で仁慈と信仰との善の中にいる者たちのもとに存在している。さらにこれらの人々にとっても良心に反して考えることは不可能となっている、なぜならそれは彼らに良心を通して主から口授される善と真理とに反抗して考えることになるからである。

 

 

 

天界の秘義2515[2]

 

しかし何ら良心を持たない状態から発した思考は自分自身が善い真のものにより内的に導かれることに甘んじないで、単に悪い誤ったもののみによって、即ち、主によらないで、自分自身によって導かれることに甘んじている者のもとに存在している。こうした人物は自分は良心と認識から考えている者たちと全く同じように内的に考えていると信じてはいるが、それは彼らは良心とは何であるかを知ってはおらず、ましてや認識とは何であるかを知ってはいないという理由によっているが、しかしその相違は地獄と天界との相違のようにも大きなものである。良心無しに考える者は何であれ何らかの欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えており、それがそのように見えない時は、それは名声を得るための外なる体裁から考えているのである。しかし良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えているのである。しかし主の思考については、それは人間の理解をことごとく超絶していたのである、なぜならそれは神的なものから直接発していたからである。

 

 

 

生命92

 

 誰でも、人間の固有性(オウン)は生来悪であって、それが人間がそのもって生まれた欲念から悪を愛して、悪に引き込まれる理由であることを、聖言から、また聖言から引き出された教義から知っている。これが彼が復讐、欺き、そしり、姦淫を行いたがっている理由である。それで彼はこうした事が罪であることを考え、そのためそれに抵抗しない限り、機会がある時はいつでも、自分に名誉かまたは利得を与える世間の評判が損われさえしなければ、それを行うのである。人間は宗教を持たない限り、こうしたことを歓喜から行うことをまた考えられよ。