宗教は政治の道具
天界の秘義1878
身体の生命の中で聖言を嘲笑した者がおり、またしゃれた無駄口を叩くために聖言の中にある事柄を濫用した者がいる。聖言は取るに足らないもので、一般民衆を抑えつけておくのに役立つものであると考えていた者もいる。聖言を汚した者もおり、それを冒涜した者もいる。すべてこうした人物の他生における運命は、その蔑視、嘲笑、汚辱、冒涜の質と度に応じて、悲惨である。なぜなら、前に言ったように、聖言は諸天界ではそこにいる者たちにはそれが謂わば天界であるほどにも聖いものであって、そこではすべての者の思考が(他の者に)伝達されているため、こうした霊どもは到底彼らと共にいることは出来ないで分離されてしまうからである。
真の基督教178
言葉は空気の変化した物であるように、思考は単にエーテルの変化した物に過ぎない、愛の諸情は太陽の光線の流入による状態の偶発的変化である、死後の生活、天界と地獄は教職者たちによって、彼ら自らの名誉と富に対する考慮から考案された作り話であるが、それにも拘らず、それは有用であり、また軽蔑さるべきものではない、何故なら、それらは単純な民衆を支配者に服従させておくことに役立つからである、更に、宗教に心を惹かれる者たちは夢見る輩であり、その思考は錯覚であり、その行動は嘲笑に価し、彼らは祭司の命令によって、見えないものを信じ、かつ理解の及ばぬものを見るのである。凡てこのようなことは、自然が宇宙の創造者であるとの信仰に含まれており、それはその信仰が試みられる時明らかになるであろう。私がかく語ったのは、内的には三人の神に対する信仰であり、外的には一人の神に対する信仰である現在の教会の信仰は、蜘蛛の卵巣内の子蜘蛛のように数多くの虚偽を宿していることを示すためである。これは、その心が主から来る光によって真に理知的となった何人によっても理解され得る所であろう。しかし、この信仰とその信仰の派生物に対する戸が閉じられ、理性がその秘義を検討することは不法であるとの詔勅によって閂をかけられる時、如何にして他の者たちはそれを認めることが出来ようか。
天界と地獄531
単に自然的な人は、外の形では、霊的な人と同様に、同じ教えに従って生活している、なぜなら彼も同じように神を拝し、教会に行き、説教を聞き、敬虔な顔付きを見せ、人を殺さず、姦淫も犯さず、盗みもせず、偽りの証も立てず、その仲間の財産を欺き取りもしないから。しかしこの凡てを彼は体裁を作るために、自分自身と世とのために行うのみで、その当人はその内なる形では神を否定して、礼拝では偽善者の振る舞いをし、自分自身と自分自身の思いに帰ると、教会の聖い物を嘲笑して、それらはただ単純な大衆を抑えつけるに役立つものに過ぎないと信じている。