終結

 

究極的なもの

 

 

 

天界と地獄304

 

これら凡てのものはまたその中に主の神的な流入が終結している究極的な物[最も外なる物]である、なぜなら神的流入は途中で停止しないで、その究極部までも進んでいるからである。これらの事柄から、人間の中には神的秩序の究極的なものがあり、究極的なものがあるため、その基底も、基礎も在ることが明らかとなるであろう。前に述べたように、神的流入は途中で停止しないで、その究極的なものまで進むため、またその流入が通り過ぎて行く途中のものとは天使たちの天界であり、究極的なものは人間のもとにあるため、天界と人類とは、その一方がその他方から存続しているほどにも関連し、連結しており、人類は天界がないならば、鎖のフックのはずれたときのようなものになり、また天界も人類がないなら、基礎のない家のようなものになることが推論される(*1)。

 

 

 

 

 

天界の秘義2556

 

真に合理的なものである、即ち、再生している人間のもとでは、凡ゆるものは天界に存在しているような秩序をもって排列されており、しかもそれは流入から発しているのである。そこから、単なる人間の知識と知恵の凡てのものにもまさり、また人間が勤勉にこれらの源から引き出してきた分析にさえも無限にまさっているほどにも驚くべき、考え、結論し、判断し、反省する能力が人間に与えられているのである。これらの事柄が今に至るまでも知られてこなかった理由は、情愛の、認識の、思考の凡ゆるものは流入しており(悪いものは地獄から、善いものは天界から流入しており)かくてこれらのものはそれらのものの外側に在る物と関連していることが信じられてこなかったということであるが、しかしそれでも真理は人間はその人間の外にいる者たちと、その霊の方面では連結していて、もし彼がこの関連性を奪われるなら、一瞬も生きはしないということであり、このことはまた、凡て連結していないものは不可能であり[在りえないのであり]、連結していない物は一瞬にして死滅してしまうという事実からも知ることができよう。

 

 

 

天界の秘義9215

 

『それを着て彼は眠る』(出エジプト記22・26)。これはそれらのもの[感覚的なもの]の上に静止していることは『眠ること』の意義から明白であり、それは静止することであって、ここでは『上着』により意味されている外なる感覚的なものの上に静止することである(9211番を参照)、なぜなら『彼がそれを着て眠る上着』と言われているからである。内的なものが感覚的なものの上に静止していることはいかように理解しなくてはならないかを述べよう。感覚的なものは、前に言ったように、人間の生命の究極的なもの[最も外なるもの]である。これは内的なものを凡て含んでおり、それらのものに共通しているのである、なぜなら内的なものはその上に終結し、かくてその上に静止しているからである。例えば皮膚がそうしたものであって、それは身体の究極的な[最も外なる]覆いとなっている、なぜならそれは身体の内的なものを含んでいるため、その中にそれは終結しており、それでまたその上にそれは静止しているからである。身体の腹膜の場合も同じである、即ち、この膜は腹部の内臓を含んでいるため、内臓はその上に静止し、またそれと全般的な関連を持っているのである。胸部の内臓に対する肋膜も同じである。

 

 

 

天界の秘義9216[3]

 

更に各々の、また凡ての物は最初のもの、または最も内なるものからその究極的なもの[最も外なるもの]へと継続的に進んで、そこに静止しており、また先在的な、または内的なものは継続的な秩序をもって究極的なものと関連していることを知られたい。それでもし究極的なものが除かれるなら、内的なものもまた消散してしまうのである。ここからまた三つの天界が在り、最も内なる、または第三の天界は中間の、または第二の天界へ流れ入り、中間の、または第二の天界は第一の、また究極的な天界へ流れ入り、更にこの究極的な天界は人間のもとへ流れ入っているのである。従って人類は秩序では最後のものであり、その中に天界は終結し、またその上に静止している[その上に基礎の基礎づけられている]のである。それで主は人類の間に教会が存在して、その教会の中に、私たちの地上では聖言であるところの、啓示された真理の神的なものが存在するように、絶えずその神的なものから配慮され[供えられ]ているのである。この聖言により人類は絶えず諸天界と関連しているのである。それゆえ聖言の細目の各々の中には内意が存在し、それは天界のためのものであり、天使たちの心を人間の心に、その両方の心が一つとなって活動するほどの密接な絆により結びつける性質を持っているのである。このことから内的なものが究極的なものの上に静止する[基礎づけられ]実情のいかようなものであるかが再び明白となっている。

 

 

 

主の聖言11

 

自然的なものと霊的なものと天的なものとは相応したものによらなくてはいささかも一致していないといったものであり、そのことがまた以下のことの理由ともなっているのである。即ち、人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間と共になっていることを知ってはいないのである。が、それにもかかわらず、彼らは絶えず共になっているのである。なぜなら人間はその思考と情愛の方面では霊たちの真中にいない限り一瞬間も生きることは出来ないし、霊もまた天使も人間と共にいない限り一瞬間も生きることは出来ないからである。その理由は最初のものから究極のものに至るまでも、かくて主から人間に至るまでも不断の連結があり、創造から発している連結は相応したものにより遂行されていて、天使たちと霊たちとを通して流れ入っているためである。天的なものはことごとく霊的なものへ流れ入り、霊的なものは自然的なものへ流れ入って、形体的なものと物質的なものであるところのその自然的なものの究極的なものの中に終結して存続するのである。こうした究極的なものが―その中へ媒介的なもの[中間的にあるもの]が流れ入っているのであるが、そうした究極的なものが―なくては、空中に建てられた家のようなもの以外の存続は有り得ないのであり、それで諸天界の基底と土台とは人類である。