手段

 

 

 

天界の秘義3913

 

「彼女は言った、見なさい、私の女中ビルハを」。これは自然的な真理と内的な真理との間に存在する肯定させる手段を意味していることは明白である、すなわち、侍女の、『女中』の、また『下婢』の意義は外的な人にぞくしているいくたの知識の情愛であり(1895、2567、3835、3849番)、この情愛は内的な諸真理を自然的なまたは外なる諸真理に連結させるための手段であるため、『下婢』によりここではその両方のものの間の肯定させる手段が意味しており、ビルハの表象はこの手段の性質である。

 

 

天界の秘義3913[2]

 

人間は再生しつつあるときは、内なる人は外なる人に連結されねばならないのであり、従って内なる人の諸善と諸真理とは外なる人の諸善と諸真理とに連結されねばならないのである。なぜなら諸真理と諸善から人間は人間になるからである。これらのものは手段なしには連結されることはできないのである。手段はその片方の側から何らかのものを、また他方の側からも何らかのものを得ているといったものであり、その人間がその一方の側に近づくに応じて、他方の側は服従するという結果を伴っているのである。これらの手段が『下婢[女中]』により意味されているものであり、内なる人の側の手段はラケルの下婢により意味され、外なる人の側の手段はレアの下婢により意味されているものである。

 

 

天界の秘義3913[3]

 

連結の手段が存在しなければならないことは、自然的な人はそれ自身では霊的な人とは些かも一致していないで、全く対立している程にも一致してはいないという事実から認めることができよう。なぜなら自然的な人は自己自身と世とを顧慮して、それらを愛しているが、しかし霊的な人は自己自身と世とをそれが霊界における用を増進することに貢献しているかぎり顧慮はするものの、それに貢献しないかぎりは顧慮しないのであり、かくて用と目的からその奉仕を顧慮し、またそれを愛するからである。自然的な人は自分が高位[顕職]に挙げられ、かくて他の者よりも一際卓越した地位に挙げられると生命を持っているようにその人自身に思われるが、しかし霊的な人は卑下の中に、またいとも小さいものであることの中に生命を持っているようにその人自身に思われるのである。かれはまた高位を、もしそれを手段としてそれにより自分が隣人に、共同体に、教会に仕えることができさえするなら、無視はしないのである。それでもかれはその挙げられた高位を自分自身のために顧みないで、かれが目的として認めている用のために顧みているのである。自然的な人は自分が他の者よりも富んで世界の富を得ると、その幸福の中にいるが、しかし霊的な人は真理と善とにかかわる知識の中にいるとき、その幸福の中におり、その知識がかれの富であり、かれが真理に従って善を実践するときは、さらにかれは幸福の中にいるものの、それでもかれは富を、それによりかれはその善を実践して、世にいることができるため、軽蔑もしないのである。

 

 

天界の秘義3913[4]

 

 こうした僅かな考察から、自然的な人の状態と霊的な人の状態とはその目的により互に対立してはいるものの、それでもそれらは連結されることができるのであり、そのことは外なる人の事柄が内なる人の目的に服従し、仕えるとき起きることが明白である。それで人間が霊的になるためには、外なる人のいくたのものが服従するようになることが必要であり、かくて自己と世を求める目的が脱ぎ捨てられて、隣人と主の王国を求める目的が着けられることが必要である。手段によらなくては前のものは決して脱がれて、後のものが着られ、かくてその二つのものは連結されることはできないのである。これらの手段が『下婢』により、とくに下婢から生まれた『四人の息子』により意味されているものである。

 

 

天界の秘義3913[5]

 

 最初の手段は内なる真理を、すなわち、それがそうであると肯定し、または肯定できるものである。この肯定するものが来ると、その人間は再生の初まりの中にいるのであり、善が内なるものから働いて、その肯定を生み出すのである。この善は否定的なものの中へは流れ入ることはできないし、また疑惑に満ちているものへさえも、それが肯定的なものとならない中は、流れ入ることはできないのである。しかし後になってそれはそれ自身を情愛により、すなわち、その人間が真理に感動することにより、またはそれを歓びはじめることにより明らかにするのであり、先ずそれを知ることの中に、次にそれに従って行動することの中に明らかにするのである。例えば主は人類に対する救いであられるという真理を考えてみられよ。このことがその人間に肯定されないかぎり、その者が主について聖言からまたは教会が学んで、その者の自然的な人お記憶の中のいくたの知識の間に貯えた凡ゆるものはその者の内なる人と連結されることはできないのであり、すなわち、そこに信仰のものとなって存在することのできるものとは連結されることはできないのである。かくて情愛もまた流れ入ることはできないし、人間の救いに資するところのその真理の全般的なものの中へすらも流れ入ることはできないのである。しかしそれが肯定されると、無数のものが附加され、その無数のものは流れ入ってくる善に満たされるのである、なぜなら善は絶えず主から流れ入っているが、しかし肯定するものが無いところには、それは受け入れられはしないからである。それで肯定するものが最初の手段であって、いわば主から流れ入ってくる善の最初の住居である。このことは信仰の真理と呼ばれている他の凡ゆる真理にも言われるのである。

 

 

天的な3982[2]

 

 人間は多くの事柄を幼少の頃と子供の頃に学ぶが、それはひとえにその事柄を手段としてさらに有益な事柄を学び、それにつづいてそのさらに有益な事柄によりそれよりもさらに有益な事柄を学んで、ついには永遠の生命の事柄を学ぶためであり、かれがこれらの事柄を学ぶと、前のものはほとんど抹殺されてしまうのであるが、そのことは人の知るところである。同じように人間は主により新に生まれつつあるとき、かれは、純粋な善と真理に対する情愛ではなくて、たんにそれらのものを把握する上に役立ち、次にそれらのものが浸透する上に役立つにすぎないところの善と真理とのいくたの情愛[善と真理に対するいくたの情愛]により導かれ、かれがそれらのものに浸透すると、その前のものは[その前の情愛は]たんに手段としてのみ役立ったものであるため、忘れられて、後に残されるのである。『ラバン』により意味されている傍系的な善と『ヤコブ』により意味されている真理の善との関係も同じであり、同じく各々の者の『羊』により意味されているものの関係も同じである(そのことについては後に述べよう)。

 

 

天界の秘義6247

 

「それは(エフラタは)ベツレヘムです」。これは、それに代って真理と善に対する新しい情愛の状態を意味していることは、『ベツレヘム』の意義から明白であり、それは新しい状態における天的なものの霊的なものであり(4594番を参照)、かくて真理と善に対する新しい情愛の状態である、なぜなら天的なものの霊的なものは善の真理であり、かくて善から発した真理に対する情愛であるからである。この節の内意における内容のいかようなものであるかを述べることが必要である。とり扱われている主題は真理に対する前の情愛を斥けて、新しいものを受けることである。真理に対する前の情愛は人間が再生しつつある間に存在しているが、しかし新しいものである後のものは、かれが再生したときに存在するのである。前の状態ではその人間は知的なものになろうという目的のために真理に感動するが、しかし後の状態では賢明なものになろうという目的から真理に感動するのである。または、それと同じことではあるが、前の状態ではかれは教義のために真理に感動するが、しかし後の状態では生命のために感動するのである。教義のために感動するときは、真理からかれは善を目指すが、しかし生命のために感動するときは、善から真理を目指している。かくて後の状態は前の状態とは逆のものである、それでその前の状態はその人間が再生しつつある間に斥けられ、新しい状態である後の状態が受け入れられるのである。さらに前の状態は、後の新しい状態に比較すると、不潔なものである。なぜなら人間は知的なものになろうとして教義のために真理に感動する時は、それと同時に名声と栄誉にもまた感動するからである。この情愛はそのとき現存しないわけにはいかないのであり、それはまた導入させるものとして許されてもいるのである。なぜなら人間はそうした性質をもっているからである。しかしかれは生命のために真理に感動すると、そのときは栄誉と名声とを目的としては斥け、生命の善を、すなわち、隣人に対する仁慈をかき抱くのである。

 

 

 

神の愛と知恵128

 

真は、主は一人が他の一人のように賢明になって、救われるように実に平等に望んでおられるのに、主は気ままに天界えお与えられ、または気ままに或る一人よりも賢明になり、愛を持たせされていると想像する者は、いかに迷っているか、従っていかに誤っているかは、この凡てから認めることが出来よう。なぜなら主は凡ての者に手段を供えられ、各人はこの手段を受け入れ、それに従って生きるに応じて賢明になり、救われるからである。なぜなら主は一人には他の一人に対されると同じように対されるが、しかし天使と人間である受容者は受容と生命の相違のために相違するからである。そのことは、霊的方位について、それの応じた天使たちの住所について今述べた事柄から、すなわち、この変化は主から発するのではなく、受容する器から発することから認めることが出来よう。