マリア・ワルトルタの中に見られる主は神であるという表現
1.人が言う個所
2.使徒が言う個所
3.ご自分から言われる個所
4.著者マリア・ワルトルタが言う個所
5.神はお一人
6.父という表現
7.御父と一つという表現
8.存在する者という表現
9.神が人間となられたという表現
10.神の御子
11.キリスト
12.救い主
13.王
14.創造主
15.三位一体の神
16.聖母が言われる箇所
1.人が言う個所
イエズス―たそがれの日々/P26
「なるほど、それは正しい。では老ヨゼフは何と言っていますか」
「あなたは『神の子であって、神として君臨する』と言っています」
イエズス―たそがれの日々/P27
「逃げた!サタンのような人だ!」
「いや、神なのだ!ご自分の望み通りにされたのだ!」
イエズス―たそがれの日々/P116
「おまえの目を開いたのは、どういう人だと思うのか?」
「私にとっては預言者の一人です。エリアは子供に霊魂を取り返したが、このイエズスは閉じていた目を開いたからです。私の母は九か月の間かかっても私の目を造れなかったのに、土のことは別にしても、一瞬の間にこの目を造ったのです。とすれば、土で人間を造られた御者に違いないと思います」
イエズス―たそがれの日々/P127
「主よ、私が神以外のだれも恐れないことは、ご存じでしょう! 墓の入口も恐れず、むしろ親しみをもって見ていますのに、今さら人の口を恐れると思いますか? 人を恐れてこの家から神を追い出せば、神の裁きを恐れるだけです」
イエズス―たそがれの日々/P158
「おお神の民よ、神を見よ! その御顔を知れ! 美しき神は今この前にまします。神の知恵は民に教えるために、人の口を借りられた。民よ、ことばに尽くせぬ御者について話すのは、もはや預言者ではなく、彼ご自身である。神について皆に話しているのは、神の奥義を知っている彼である。
イエズス―たそがれの日々/P160
「アドナイ! アドナイ! あなたは偉大なお方です。神なるお方に新しい歌を歌いましょう! シャレム! シャレム! シャレム! マールヒク!! 平和!! 平和!! だれも刃向かえない王に平和・・・」
イエズス―たそがれの日々/P166
彼は他の人たちと一緒に、イエズスを迎えに来た人で、律法学士が皆、反対者ではない。中には神として認められるなら認めようという真実の意志をもって、イエズスに従うかどうか決めようとしている者もいるのだと言った人である。
イエズス―たそがれの日々/P171
「サベア、あなたは今聞いたその家に行きなさい。それはある母親です。私の母の所へ送りたかったが、今はできません。正義と従順をもって主に仕え続けなさい。あなたを祝福します。平和に行きなさい」
「はい、主よ、私の神よ。でも話さねばならないときには、どうしたらいいでしょうか?・・・」
イエズス―たそがれの日々/P204
死ぬ前にヘルモゲネスが会うだろうと約束した、その神に会えることを希望して、生きてきましたが、今、自分自身に、その神を本当に見たと言えます。それは稲妻のようにではなく、音のない音のようにでもなく、そのことばを聞きました。神なるお方が、明るい非常に美しい人間の形で私に現れてくださったのだと感じ、聖なる驚きに打たれています。
イエズス―たそがれの日々/P205
ああ、主よ! 私たちはあなたをどのようにして、見つけられるでしょうか。そして私たちに話されたのは確かに神ご自身ですとおっしゃってください。
イエズス―たそがれの日々/P255
羊飼いのマティア:
幼な子であった神の弟子として、その教えを全世界に告げることで、神は我々をどんなに愛して下さったことか!
イエズス―たそがれの日々/P257
羊飼いのレビ:
イエズスの姿を見るというより、ともにまします神が見えた。
イエズス―たそがれの日々/P271
クザ:
イエズスは真に神であった!
イエズス―たそがれの日々/P273
そうだ。しかし、ヴァレリアにとっては、人間以上の者だ。ナザレ人は神自身だと言う。
イエズス―たそがれの日々/P277
アリマタヤのヨゼフ:
彼は神なのだ。
イエズス―たそがれの日々/P375
「ああ、あわれみの神よ!あなたはそれもご存知ですか?!」と唖然として彼は言う。
マグダラのマリア
受難の前日/P88
「マリア、自分を抑えることです。彼らよりもずっと大きな罪を犯したあなたを、神様はゆるしてくださったのですから」
「本当にそうでした。神様であるあなたを、彼らがだれかにそそのかされて侮辱したのは、ただの一度だけですもの。私の方は、幾度もそうしたのです・・・それも自分の意志で。ですから私は他人に対して頑固であったり、傲慢であったりしてはいけないのです・・・」
受難の前日/P176
「だれって? もちろん神ですよ。神は自らご自分を造ることもおできになるし、ご自分を甦らせることもおできになります・・・」
(中略)
「あなたは、人間は自分の力で甦ることはできないと言いたいのでしょう。でも・・・主は自らの力で人間になられたのですよ。至聖なる神には、おできにならないことはありません。ですから、同じように自分に甦れと命じることもできます」
受難の前日/P177
「ああ、私の主よ、あなたが何者か、私は信じています」
マリアは、大理石の床の上、イエズスの足元にひざまずいて深く礼拝する。
「私が何者かを?」
「あなたは神です!私たちを救うために、人間という服をまとって私たちの中に下られ、その輝きと聖性を隠しておられますが、しかし、あなたは神、私たちの神です!」
マリアはひれ伏して、長い麻の服の下から出ているイエズスの足指に口づけする。そのままの形で顔を上げようとしない。
「マリア、立ちなさい。その信仰をいつまでも保ち、嵐の時も希望の時も高く掲げて生きなさい」
マリア・ワルトルタ/復活/P166
二人は神の出現を前にして、我を忘れて礼拝し続ける。
マリア・ワルトルタ/復活/P170
(老人)
それでいて私は彼が神の子であって、死んでよみがえったと信じている。(中略)
けれども彼は違う。彼は神なのだから。
2.使徒が言う個所
(ヨハネ)
イエズス―たそがれの日々/P62
「アルフェオのヨゼフは確信を持っているのでしょうか?」
「いや、まだです」
「それでは、あなたをどう思っているのですか?メシア、主、神と思っているのですか?私にはよく分かりませんでした」
(ケリオットのユダ)
受難の前日/P15
ああ、あんたは聖者そのものだ・・・人間でもあり、神でもあるし、
受難の前日/P36
(バルトロメオ)
「登る必要はない。神が我々の間に降られたのだ。だから、神に従って歩めばよい」
受難の前日/P50
(ゼベデオのヤコボ)
「でも先生、あなたはあなたです。神よ!彼(先駆者ヨハネ)は人間でした!」
「私は救い主で、神であり人間よりも完全なものです。(後略)」
マリア・ワルトルタ/復活/P108
(トマ)
トマは、今触れている神的な心臓の近さで勇気づけられたか、腕を上げ、後悔の激しいすすり泣きをもって、崩れ落ちるようにひざまずき、やっとの事で言う。
「我が主よ、私の神よ」
それ以上は何も言えない。彼をゆるしたイエズスは、右手をその頭に置き、
「トマ、あなたは私を見て信じたが、私を見ずして信ずる人は幸いである。信仰が見る力によって支えられたあなたたちを報いるならば、見ずして信ずる人には、どんな報いを与えるべきか!」
マリア・ワルトルタ/復活/P156
(ユダ・タデオ)
「・・・とにかく・・・彼は神なのだ・・・私は、主のみ前にいると、至聖なる神のみ前にいる気がして、身がふるえる・・・」
そこにアンドレアが帰ってくる。
「もうおいでにならない・・・主には、時も空間も、壁もない・・・」
「神だ・・・神なのだから・・・」
皆は思いにふけり、ささやくように言う。
3.ご自分から言われる個所
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P53
(主がマルタに)
私は神の目をもってすべてを見ています。
イエズス―たそがれの日々/P56
「(前略)戦争と勝利の叫びを口にしたくないのですか―イスラエルの王座に歓呼して迎えられる―今度が初めてではありませんが、ラビとして預言者としてのあなたの力をもって人々に、ホザンナを叫ばせることができると分かっているなら、少なくともこの歓呼を浴びて王となってください」
「私は、もうそうなっています。永遠の昔から」
イエズス―たそがれの日々/P58
しかし彼らは私を憎んでいます。私はこの世にとって一つの“危険”だからです。世間の偽り、欲望、暴力に対する危険そのものだからです。私は光で世間を照らすが、世間は光を愛しません。光は世間の俗悪さを、はっきり見せつけるから、世間は私を愛さない・・・私を愛することはできません。私が人間の心に打ち勝つために、つまり、人間を迷わせる闇の王に打ち勝つために来たと知っているからです。世間は私が医者であり、薬であることを認めようとせず、治療を拒んで狂ったように私を殺したいのです。世間は私が主であるということに納得しない。私の言うことが世間の常識に背いているからです。そのために世間は、罪悪である自分の本性をあばこうとする私の声を、神の声を、押しつぶそうとしています。私と世間との間には、淵があります。それは私の責任ではありません。私はこの世に光と道を、真理と命を与えるために来たのに、世間は私を迎えようとしない。私の光は、その世間にとって闇に変わる。それは私を望まない人々の罰になるからです。
イエズス―たそがれの日々/P60
それは私が人間となった神である証拠です。
イエズス―たそがれの日々/P79
天から雷鳴のように告げられ、地から轟くこの真理の啓示を知り『彼こそは神のキリストである』と信じる人は幸せである。
イエズス―たそがれの日々/P136
「いろんなことが言われていますね。我々はよく耳を立て、人の噂を聞き、百夫長と総督に伝えるのですが、あなたについては、神であると言われています。本当ですか?」
下士官はこう言いながら、かなり当惑している様子である。
「その通りです」
イエズス―たそがれの日々/P206
私のこの世での生活の初めには、いろいろな民の代表者たちが、無限の神が隠れている幼な子を拝みに来ました。
受難の前日/P19
お前は、だれの前にいると思うのか。お前は、もう私のたとえ話が理解できないと言った、私の言葉がもう分からないと言った不幸な男だ。お前には、もう自分自身さえ分からなくなっている。善と悪の区別さえ、つけられなくなっている。誘惑の時、サタンの言いなりになったために、サタンは色々な方法で、お前を愚かにしてしまった。それでも、以前は私が何ものであるか、“存在する者”であることを信じていた。しかし、その記憶はお前の中から消えてしまったのではない。他人の行為とその考えを知るために、神が人間の証言を必要とされないくらいのことは、覚えているだろう。お前は私が神であることを信じないほど堕落しきってはいない。そこに最大の罪がある。私が神であることを信じているからこそ、私の憤りをそれほどまでに恐れるのだ。お前は、人間ではなく神と戦っているのだと知って、恐れおののいている。
マリア・ヴァルトルタ/天使館/第4巻中/P19
神は唯一であり、それはわたしであり、わたしのほかに神はいない。そのことを思い出さなければならない。神は忍耐づよいがその無限の忍耐において自分自身に対して罪は負わない。しかし、もしその忍耐を、『そこまでだ!』と言って介入せず、自分自身への尊敬に対する無関心にまで至らしめれば、有罪となろう。
4.著者マリア・ワルトルタが言う個所
イエズス―たそがれの日々/P136
「はあ、すると、神々が人間と話を交わすために下って来ることは本当なのですか? 私はローマの旗を守って全世界を巡って来ましたが、この年になって神の一人に出会うとは思ってもみませんでした」
「神はひとりです。神々の一人ではありません」とイエズスは彼のことばを訂正する。しかし下士官は一人の神と一緒に歩いているという考えに呆然自失の態で、もう口をきかず、ただ考え込んでいる。
イエズス―たそがれの日々/P246
イエズスは神の光に輝いている。神がそのようにして光り輝くとき、最も凶悪な罪人でも、恐れを抱き身が縮むようである。
5.神はお一人
イエズス―たそがれの日々/P136
「はあ、すると、神々が人間と話を交わすために下って来ることは本当なのですか?私はローマの旗を守って全世界を巡って来ましたが、この年になって神の一人に出会うとは思ってもみませんでした」
「神はひとりです。神々の一人ではありません」とイエズスは彼のことばを訂正する。しかし下士官は一人の神と一緒に歩いているという考えに呆然自失の態で、もう口をきかず、ただ考え込んでいる。
6.父という表現
イエズスに出会った人々1・P354
マリア・ワルトルタの言葉:
何日か後、神のあわれみと人間の罪についての“いとも聖なる父”の厳しい口述の中に次のことばがあります。
「もう一年も前から、神が、あなたたちの悪い心を向上させるための最後の証として与えられたことばの何の役に立つか。多くの人々には楽しみのため、ある人々には滅びのため、そして、ほんの一握りの人々が聖徳に進むためのものである。つまり多くの人々にとって逆らいのしるしであるという“キリストの運命”が続いている」
イエズスに出会った人々1/P348
マリア・ワルトルタの言葉:
「これらが、イエズスだけ、父であるあなたと私だけに知られますように。」
イエズス―たそがれの日々/P59
愛か憎みか、善意か悪か、いずれにしろ私を王にしたいなどという望みをかなえるわけにはいきません。そうすればナザレトのマリアとヨゼフの子イエズス、真のメシアを無にしてしまう。
そうすれば王の王、処女から生まれたエンマヌエル、強い者、未来の世界の父、平和の君、その国と平和には限りなく、人間の子孫としてダビドの王座に座り治めて、世界を自分の足台にする者と、詩篇に言われている通り、神なる父を起源とする超自然の権利で、御父を自分の傍らに持つ者、そのメシアを破壊してしまうのだということが分からないのですか。
神が人間になったのも、その完全な愛によって人間を救うためであって、自分自身をあわれな人間のところまで下げることはできない。
イエズス―たそがれの日々/P76
ガマリエルは小さな書き枝と羊皮紙を持って来させて何かを書き続ける。
(イエズス:)
「霊的な被造物である天使は、いと高き神に仕え、ときにはその使いとして送られるが、人間や動物や、その他のものと同じように、神によって造られたもので、神から生まれたものではない。
神から生まれるのは、もう一人の神でしかありえない。
いと高き御者は、ご自分と同じ“完全なもの”しか生みえない。
神が天使を生まず、また、それらをご自分の子としての偉大さまで、引き上げなかったとしたら、神が『おまえは私の子である。私は今日おまえを生んだ』と言われたあの“子”とは何ものか。
それのみか、天使たちに彼を礼拝せよと命じられた。神が彼を生み、神はご自分の天使たちに『神の天使は皆、御子を礼拝せよ』と言われているその御子とは何ものか。
“神は私の右に座し、私は敵を足台にする”と言われる御子は、御父と同じ神に他ならない。
彼は神の権勢と属性を持ち、御父と御子とを喜ばす“愛”を味わうであろう。もし神が天使の一人を御子の位に上げるのはふさわしくない、と思われたならば、天使ではないその“子”とは何ものか。あなたたちは一昨年の終わりごろ、ベタバラの渡し場で、その声を聞いた。
では今こうして話している者は、人間の出生と意志による者だろうか。それにいと高き者は、人間の意志によって生まれた恩寵を持たない肉体に御子を住まわせただろうか? 神に対する大なる罪(原罪)を償うために、人間の生贄だけで足りるだろうか?
よく考えてみよ。神がメシア、救い主とするために天使の一人を選ばなかったとすれば、まして人間をその役割りに選んだはずはない。
また人間性を取らない御子が、人間の想像を超える手段と力によってだけ救い主となることができただろうか? さらに神の御子は永遠なる者なのに、親がありえただろうか? 傲慢な考えの者は、真理の国に接触するこのような質問に対して、ただ心が騒ぐばかりである。謙遜で信仰に満ちた心だけが、その返事を得ることができる。このような質問の前に立って、いかに傲慢な者であろうと、ひるまないではいられまい。
キリストはだれか? 天使か? 否、天使以上の者である。人間か? 否、人間というより神である! しかも肉体を合わせた神性である。
人間の罪の償いを果たすには、肉体も必要であった。贖いは罪を犯した者によって行われねばならない。神は堕落した天使の罪を償うために、天使の一人を送ることもできたが、そうはなさらなかった。知っての通り、ルチフェル(サタン)も罪を犯したが、神はそれを贖うために、もう一人の天使を送ることはなさらなかった。堕落した天使は神の御子を礼拝しなかった。神はご自分の愛が生んだ“みことば”に反する罪はおゆるしにならない。しかし神は人間を愛された。
その人間を贖い、神と和睦させるために、唯一の完全な人間をこの世に送られた。“神である人間”だけが人間の贖いを行い、神の怒りを鎮めうる。これこそ理にかなったことである。
御父と御子は相愛し、互いに理解し合われる。御父が『私は望む』と言われれば、御子は『私も望む』と答えられた。それから御子が『ください』と言われれば、御父は『取れ』と答えられる。“みことば”の形成はかくも神秘的である。かくて神は肉体を帯び、この肉体はメシアであるイエズス・キリストである。彼は人間を贖って御国まで導き、悪魔に打ち勝って奴隷の鎖を破る唯一の者である。
悪魔に打ち勝つこと! それは天使にはできず、“人の子”だけにできた。神はこの偉大なる御業に天使ではなく人間を呼ばれた。それこそ、あなたたちが疑い否定している“彼”の起源である。それは神に嘉される人であり、すべての兄弟を代表する人間である。この人はあなたたちの姿に似ているが、その起こりははるかに高いもので、人間からではなく神から生まれ、その使命のために聖別されている。この人は完全な祭司であり、世の罪を贖う生贄として、メルキセデクの位に従い、最高の大祭司として祭壇の前に立っている。(後略)」
イエズス―たそがれの日々/P105
「彼もその親も他の人と比べて特別な罪を犯したわけではない。貧しさは罪に歯止めをかけることが多い。彼が盲目で生まれたわけは、再び神の力と御業が彼の上に現されるためです。私はこの世に来た光であって、神を忘れたり、神の姿を見失った人々に神を思い出させるため、あるいは神を探している人、すでに神のものである人を信仰と愛に固めるためでもある。
御父が私を送られたのは、私にまだ残されている日々の間に、イスラエルと全世界の、神に対する認識を完成させるためです。つまり私を送られた御父の御業を果たし、私が神と一つであり、神にできることは、私にもできることを証明するためです。
この世が御子は御父と同一であるという真理を信じることを望みます。
間もなく仕事ができなくなる闇が来るでしょう。私への信仰を心に刻まなかった人々は闇に覆われ、取り返しのつかない混乱と苦しみと滅びの中に留まります。私はこの世にいる間、光と証人です。ことば、道、命、知恵、力、あわれみです。では、あの盲人をここへ連れて来なさい」
イエズス―たそがれの日々/P156
「ああ! 民々の王、あなたにご挨拶申し上げます。ああ平和の君! 終わりのない世紀の父! 新しい民の統率者!」
イエズス―たそがれの日々/P189
私は神であるのにあなたを迎え、父であるがためにゆるされた。
イエズス―たそがれの日々/P257
羊飼いのマティア:
「しかし、また多くの愛にも取り囲まれている。私はそうしたい。そうなりたい。いと高き御者はここに現存しておられる。私は私自身を彼に捧げて、言いたい。『いと高き神よ、主よ、あなたの民の神、父であるあなたは人の心と祭壇とを受け入れ聖別されます。あなたに嘉されている生贄を屠る火のように、主の御旨が私に下りますように。あなたの御子、メシア、神であり、師であるキリストとともに、生贄として私を焼き尽くしてください。あなたに心身を捧げる私の祈りを受け入れてください』」
受難の前日/P7
布地全体が弱っているだけでなく、穴が開いたり、切り裂かれたりしていたら、自分で直せるなどと思い上がった考えを捨てて、霊魂を新しくしてくださるお方に頼まねばなりません。このお方は何でもできるし、何でもなさいます。すなわち私の父なる神、私、救い主についての話です。ところが、人間は傲慢なもので、自分の霊魂が滅びかかっていても、下手に繕って、かえってますます大きな傷口にしてしまいます。
受難の前日/P54
本当に、この子らは、私にとって実の子以上のものです。なぜなら、私はこの子らの霊魂の父であり、その霊魂は私のものだからです。
7.御父と一つという表現
イエズス―たそがれの日々/P74
「(前略)私は皆の知らない“真理そのもの”です。真理が私を送ったのです」
怒りの叫びが聞き手の側から上がる。
「真理そのもの。おまえたちは、その真理の御業を知らず、真理の道も知らない。憎しみに駆られて愛の道と御業を知ることはできない。闇は光に耐えられない。しかし私は、私を送ったお方と一つのものである。そして私が送られた理由は、神の御旨を実現するためである」
大騒ぎが起こる。敵はイエズスを捕らえて打ち叩こうと迫って来る。
27・3/天使館1巻P220
試練が苛酷であればあるほど信頼しましょう。ちょうど二人の幼子のように御父に手を引いていただきましょう。彼が導かれます。実際、わたしたちは彼に委ねているのです。どれほどの愛をもってここまでわたしたちを導いてくださったか。どれほど善良な父親でもこれほどの世話はできないでしょう。わたしたちは彼の子でありしもべですわ。
8.存在する者という表現
イエズス―たそがれの日々/P37
「私は“存在する者”です。では、さようなら、あなたに平和。太陽が西に傾き出しました」とイエズスは言い、背を向けて村の方へ歩き出す。
9.神が人間となられたという表現
イエズス―たそがれの日々/P60
それは私が人間となった神である証拠です。
マグダラのマリア/P77
かくて神は肉体を帯び、この肉体はメシアであるイエズス・キリストである。
10.神の御子
イエズス―たそがれの日々/P101
「あなたはメシアで、彼らはただの人間です。あなたは神の御子です。ミザーチェは私にそう言いました。私はそれを信じています。あなたは何でもおできになる。私のような者に対しても」と男は躊躇なく答え、ラクダをひざまずかせないで、地に下り立ち、土ぼこりの中にひれ伏す。
「あなたの信仰は深い。さあ行くがよい。ところで、ネボ山はどこにあるか知っていますか」
11.キリスト
イエズス―たそがれの日々/P168
「私は『おまえはキリストか』と何百回も祭司やファリサイ人から聞かれた。私がそうだと答えると冒涜者、気違いと言われ、私に投げつける石を拾ったではないか。黄金の律法学士と言われながら、それをしたのは、サドク、おまえではなかったか」と、イエズスは女に罠をかけ、打ち叩いた鼻の大きな律法学士を指差して言う。
12.救い主
イエズス―たそがれの日々/P177
私は救い主です。だれも追い払わない・・・。
受難の前日/P141
「三位一体の神の御名で、そして善意の人々のために救い主となるべく人間となった私の名によって、あなたたちを祝福します!」と言いながらイエズスは腕を開き、皆を祝福し、それからひれ伏している四人の頭に一人ずつ手を置く。
13.王
イエズス―たそがれの日々/P207
今、私が諸国の民の前に王と認められる時が来ました。私が出て来た国へ戻る前に、すなわち、地上での日が終わろうとする今、この礼拝すべき者を、ここに見に来るのは正しいことです。この新しい初穂であるよい人々は、エゼキエルの書に言われている通り、岸辺の木々のように多くの実を結ぶでしょう。
14.創造主
受難の前日/P18
神から受けた知恵と自由を、闇に従うために用いた。善と悪との選択にあたって、お前は悪の方に走った。永遠の創造主であり、善そのものである私が、お前の目の前にいたのに。
15.三位一体の神
受難の前日/P18
私の神性は全能で常に神と一致し、御父と聖霊と共に一つのものである。お前が私にした非難は、三位一体なる神への非難である。
16.聖母が言われる箇所
マリア・ワルトルタ/復活/P25
すさまじい音にはっと頭を上げた母マリアは、風でも出たのかと、窓を見上げる。その時、そこに現れたのは、傷あと一つなく、生き生きとした光輝く御子イエズスの姿である。
太陽よりも光輝く糸で織り上げたような、白光を放つ服をつけたイエズスは、微笑を浮かべて母マリアに近寄る。
母マリアは膝をついたまま、腕を胸の上に十字に合わせ、まるで泣き笑いのような声で、
「主よ・・・私の神よ・・・」とつぶやく。