主の御顔

 

 

 

 

天界の秘義222

『エホバの御顔から身をかくす』ことは悪を意識している者の場合に普通起きるように、指示を恐れることであることは、かれらの答えから明白である(創世記310節)。『わたしは庭園の中にあなたの御声を聞いて、自分が裸であったために、恐れました。』

 

『エホバの御顔』または主の御顔は祝祷から明白であるように、慈悲、平安、凡ゆる善である―

 

エホバがその御顔をあなたの上に輝かせて、あなたに慈悲を垂れたまいますように。エホバがあなたにその御顔をもたげられて、あなたに平安を与えられますように(民数記6・25,26)。

 

ダビデの書には―

 

神がわれらに慈悲をたれたもうて、われらを祝福し、その御顔をわれらのうへに輝かせたまわんことを(詩篇67・1)。

 

また他の所にも―

 

多くの人は言う、たれが何か善いことを私らに見せるであろう、と。エホバよ、あなたの御顔の光をわたしたちの上に輝かせたまえ(詩篇4・6)。

 

主の慈悲はそれでイザヤ書には『御顔の天使』と呼ばれている―

 

わたしはエホバの慈悲を告げよう、エホバはその慈悲にしたがって、その夥しい慈悲にしたがって、彼らに報いられた、かれは彼らの救い主となられた。彼らが苦しむ折にはつねにエホバも苦しまれ、その御顔の天使が彼らを救った、かれはその愛と憐れみとをもってかれらをあがなわれた(イザヤ63・7−9)。

 

 

天界の秘義223

 『主の御顔』は慈悲、平安、凡ゆる善であるため、主は凡ての者を慈悲から顧みられ、その御顔を何人からも決してそらされはしないことは明らかであるが、しかし主によりイザヤ書に言われているように顔をそむけるものは、悪の中にいるときの人間である―

 

おまえの不法がおまえとおまえの神とを引き離した、おまえの罪がその御顔をおまえから隠してしまった(イザヤ59・2)。

 

そしてここでは『かれらは裸であったため、エホバの御顔から自らを隠してしまった』のである。

 

 

天界の秘義224

 慈悲、平安、凡ゆる善は、または『エホバの御顔』は認識を持っている者たちにおける指示の原因であり、また方法は異なってはいるが、良心を持った者たちにおける指示の原因でもあり、それらは常に慈悲深く働いているが、しかしその人間がおかれている状態に応じて受け入れられている。この人間の、すなわち、最古代教会のこの子孫の状態は自然的な善のそれであって、自然的な善の中にいる者は裸であるため、恐怖と恥辱のために身を隠してしまうといった性格を持っているのに反し、自然的な善さえも欠いている者らは、恥辱を感じないために、身を隠しはしない。この者らについては、エレミヤ記8・12,13。(上述の217番を参照)。  

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P46

 

イエズスの瞑想とは何だろう?それは人間が体験する脱魂よりもずっと深いものであろう。この受け取り方は間違っていないと思う。イエズスの表情を見ただけで「神との感覚的一致がある」と言える。御父と同じく神であるから、キリストには絶えず神性が伴う。天と同じく地上においても、御父は御子におられ、御子は御父におられる。

 

この愛によって第三の位格、聖霊が生まれる。御父の権勢は御子を生み、生むまた生まれるという行為は「火」すなわち神の霊をつくる。どんな場合も、お互いの認識は―人間の不完全な認識でもそうだが―愛をつくるのであって、神の場合それは聖霊である。それはご自分の中で御父を眺める神なる人間の、人間として、また神として、目を上げるときの眼差しである。

 

 ああ!だれ一人、詩人でも、画家でも、神性から出るその眼差しを表現することはできない。奇跡を行うときのその眼差しの力強さ。人間としての表情はいかにも甘美であり、苦しみの目の光は、見るだに心痛む。しかし、その表現は完全であっても、まだ人間的な眼差しである。三位一体の一致性において、眺め愛する神の御子の眼差しは、どんな形容詞も及ばないものである・・・

 

 

アヴィラのテレサ/自叙伝38章・21(P513)

 

神にそむいた霊魂は、主の御稜威を見る恐れによるよりも、このえも言われぬ美しいみ顔が表わす、慈しみと、やさしさに満ちた愛を見ることによって、もっとずっと苦痛と悲哀の情をかきたてられます。

 

 

 

シスター・エマニエル/メジュゴリエの証言者たち/ドン・ボスコ社/P90

 

 ある日、教会で一人のフランス人司祭が語ったパリでの小さな出来事の物語によって、私たちは「心を込めての祈り」について驚くべき例証を受けることができた。

 

 ポールはほとんどの時間を野外で過ごしていた。彼は、いつも物乞いをしていた聖ジャック教会を高く評価していた。正直に言わなければならないが、彼はいつもワインを一本持ち歩いていた。彼は他にも多くの病気をもっており、肝硬変を患っていた。顔色がそのことを示していた。近所の人々は遅かれ早かれ彼がいなくなるだろうと思っていた。しかしながら、本当のところは誰も彼には関心をもっていなかった。

 

 それでも教区の一人の心根の優しいN夫人は、彼とある種の対話を始めた。この男の恐ろしい孤独は彼女を悲しませた。彼女が、彼が朝になると一時的に玄関のいつもの場所を離れ、教会の中に入って行き、いつも誰もいない前列の座席に座り、聖櫃の前にいるのに気づいた。彼はそこに座り、何もしてはいなかった。

 

ある日、彼女は彼に言った。

「ポール、私はあなたが何度も教会の中へ入って行くのを見たわ。でも、そこに座っている間、あなたは何をしているの?あなたはロザリオを持っていないし、祈祷書も持っていない。ときには居眠りをしていることさえあるでしょう?あそこで何をしているの?お祈りをするの?」

 

「どうしておれが祈りをすることなんかできるんだ?おれは、子どものとき日曜学校で教わった祈りの言葉を一つも思い出せないんだ。すべて忘れてしまったよ。おれが何をしているかだって?簡単なことだ!おれはイエスが独りで小さな箱の中におられる聖櫃のところへ行って、イエスにこう言うんだ。『イエス!おれです、ポールです。あなたに会いに来ましたよ』って。そしておれは、ただおれがいるということを示すために、しばらくの間そこに座っているのさ。」

 

 N夫人は口をきくことすらできなかった。彼女はポールが言ったことを決して忘れなかった。日々がいつものように来ては過ぎて行った。そしてある日、起こるべきことが起こった。ポールは玄関から消えた。彼は病気なのだろうか?それとも死んだのか?N夫人は探し出す決心をした。そしてついにある病院にいることがわかった。彼女はポールを訪ねた。かわいそうなポール。彼は恐ろしい姿になっていた。彼は治療用のチューブで覆われていた。顔色が灰色で青ざめていた。彼はまさに死んで行く者のようであった。おまけに、医療的な予測もむしろ楽天的ではなかった。

 

 彼女は翌日、悪い知らせを聞くことを予期して病院に再び向かった。ところがそうではなかった。ポールはきれいに髭を剃り、生き生きとした様子で、すっかり変わって、ベッドに身体をまっすぐにして座っていた。測り知れない喜びの表情が彼の顔から放射していた。彼は輝いて見えた。

 

 N夫人は彼女の目をこすった。明らかに、それは彼であった!

「ポール!信じられないわ。あなたは復活したのよ!あなたはもはや同じ人ではないわ。いったい全体あなたの上に何が起こったの?」

 

「そうだね、すべて今朝起こったんだ。おれは気分がまったくすぐれなかったんだ。突然、誰かが入って来て、ベッドの足下に立つのを見たんだ。彼はハンサムだった、とてもハンサムだったよ・・・あなたには想像すらできないだろう。彼はおれにほほえみ、そしてこう言ったんだ。『ポール!私だ、イエスだ。きみに会いに来たよ!』」