植林

1.砂漠に木を植える

2.知識が植え付けられる

3.尽きることのない富を天に積みなさい

 

 

 

 

 

 

1.砂漠に木を植える

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P226

 

荒廃した我が聖所を立ち上げるのを援助し この砂漠に植林するためにも あなたを育て上げた

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P152

 

この切迫した時代にたいして 私の尽くしがたい富を隠しておこうとは思わない むしろ無なるあなたを用いてひろめていく。 もうほんのわずかしか時がない、待たないように、あなたの理解をこえるほど 私は苦しんでいる。 急ぎなさい、砂漠のかなたでは 死がさし迫っているがゆえ。 悦びなる私を 悦びなさい。祝福を与える。 ic

 

 

2.知識が植え付けられる

 

天界の秘義1616[2]

 

『ヘブロンにあるマムレの樫の木の杜』がさらに内なる認識を意味していることについて、実状は以下のようである。

 

外なる人に属したものが内なる人の天的なものに連結するにつれ、認識は増大して、さらに内なるものとなるのである。

 

天的なものとの連結は認識を与えるのである、なぜならエホバに対する愛に属した天的なものの中には内なる人の生命そのものが存在しており、またはそれと同一のことではあるが、愛に属した天的なものの中には、即ち、天的な愛の中には、エホバが現存されており、その現存は連結が行われないうちは外なる人の中には認められないのであって、認識はことごとく連結から発しているからである。

 

 

[3]内意からここに主における実情はいかようなものであったが明白である、すなわち、主の外なる人は、または人間的な本質は知識が増大して実を結ぶに応じて、徐々に神的な本質に連結されたのである。

 

知識によらなくては、たれ一人、人間として、エホバに、または主にいかような方法によっても連結することはできないのである、なぜなら知識により人間は人間になるからである、そのように主も他の人間のように生まれたもうたため、かれらが教えられるようにまた教えられたもうたのであるが、しかし主の知識の中へは、それを容器として、天的なものが絶えず秘かに注ぎこまれ、それでその知識は絶えず天的なものを入れる容器となり、知識それ自身もまた天的なものとなったのである。

 

 

[4]主はこのようにして幼児の天的なものの中へ絶えず進まれたのである、なぜなら、前に言ったように、愛にぞくした天的なものは幼児の最初期から子供時代にかけて、また青年期にかけて、徐々に浸透するからである。

 

もしその人間が再生することができるようなものであるなら、これらの知識はそのとき愛と仁慈にぞくした天的なものに満たされ、かくてその人間が幼少の頃から子供時代と青年期にかけて与えられてきた天的なものの中に植えつけられ、かくしてかれの外なる人はかれの内なる人に連結するのである。

 

これらの知識は先ずかれが青年時代に与えられた天的なものの中に植えつけられ、次にかれが子供時代に与えられたものの中に植えつけられ、最後にかれが幼少の頃に与えられたものの中に植えつけられるのであって、そのときかれは主から『神の国はこうした者の国である』と言われた『小さな子供』となるのである。

 

この植えつけられることは主のみにより行われるのであって、そうした理由から主から発していない、また主のものでない天的なものは一つとして人間のもとにはありえないのであり、またあり得るはずもないのである。

 

 

3.尽きることのない富を天に積みなさい

 

ルカ12・33−34

 

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 

 

天界の秘義5886[6]

 

同書に以下のように言われていることも同様である―

 

あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、つきない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。

 

たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。

 

 

天界の秘義5886[4]

 

霊的な意義では『買うこと』は自己のために得ることであり、『売ること』は遠ざけることであるため、それでマタイ伝には、天界の王国は主により売り買いする者にたとえられている―

 

天国は畑にかくれた宝に似ている、人がそれを見つけると、かくしておき、喜んで去り、その持っているものを凡て売って、その畑を買うのである。さらに、天国は美しい真珠を探し求めている商人に似ている。かれは貴重な真珠を見つけると、去り、その持っているものを凡て売って、それを買ったのである(12・44−46)。

 

『天国』は人間のもとにある善と真理とを意味し、かくてそのもとにある天界を意味し、『畑』は善を意味し、『真珠』は真理を意味し、『買うこと』は善と真理を自分自身に得て、自分自身のものとすることを意味し、『その持っているものを凡て売る』は、かれが以前持っていたかれ自身のものを遠ざけることを、かくて悪と誤謬を遠ざけることを意味している、なぜならこれらは自分自身のものであるからである。

 

 

[5]ルカ伝には―

 

イエスはその若いプリンスに言われた、あなたは尚一つの事を欠いている、あなたが持っているものをことごとく売って、貧しい者に分け与えなさい、さすればあなたは天に宝を得るでしょう。そして来て、わたしについてきなさい(18・22)。

 

内意ではこれらの言葉により、悪と誤謬以外のなにものでもないところの、かれ自身のものである凡てのものは遠ざけられねばならない、そしてそれが遠ざけられたときかれは『天の宝』である善と真理とを受けるにちがいないことが意味されているのである。

 

[6]同書に以下のように言われていることも同様である―

 

あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、つきない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。

 

たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。