植物

 

 

1.植物

2.いばら

3.ヒソプ

4.にがよもぎ

5.すげ

6.植物は雄性のみであって、地は共通の母

7.シュロ

 

 

 

 

1.植物

 

天界の秘義1632

 

 わたしは天使たちと表象について語って、地上の植物界には何らかの点で主の王国を表象していないものは一つとして存在しないという意味のことを言った。かれらは言った、植物界の美しい優雅なものはことごとく天界を経て主からその起源を得ており、主の天的な霊的なものが自然界に流れ入るとき、こうしたものが実際に存在するようになるのであり、そのことが植物の霊魂[精髄]または生命の根源である。そこから表象的なもの[霊的な、天的なものを表象するもの]が生まれているのである。そしてこのことは世では知られていないため、それは天界の秘密と呼ばれたのである、と。

 

 

天界の秘義3220

 

 天使たちが理知と知恵との事柄について、また認識と知識とについて語り合っていると、それに相応している霊たちの社会へ注ぐかれらからの流入は植物界に在るようなものの表象に落ちこむのであり、例えば楽園、ぶどう園、花が咲いている牧場に、人間のいかような想像をも絶した多くの可憐な形の中へ落ちこむのである。ここから知恵と理知にぞくしている事は聖言には楽園、ぶどう園、森、牧場により記入されており、これらのものが記されている所ではこのような事柄が意味されているのである。

 

 

天界の秘義6726

 

『葦』が記憶知を意味しているのは、聖言の植物は各々何かの種類の記憶知を意味しているからであり、川岸にある葦は価値の低い記憶知を意味しているのである、

 

 

2.いばら

 

天界の秘義9144

 

『いばら』の意義は誤謬。

 

さらに誤謬が視覚に示されるときは、それは先が尖っているように見えるのである。

 

[]『いばら』により意味されている欲念の誤謬は世とその快楽にぞくした事柄を確認する誤謬である、なぜならこれは身体の中にあって知覚される欲念から発しているため、他の凡ての誤謬にもまさって火がついて、燃え上がるからであり、それでまたそれは内なる人を閉じこめ、かくて霊魂の救いと永遠の生命とに関わるものを味得することができなくなってしまうのである。

 

[10]

主は十字架にかけられたもうたとき、かれらは主の頭にいばらで編んだ冠をかむらせ、主をユダヤ人の王としてはやし立て、見よ、この男を、と言った(ヨハネ19・2,3,5)

 

ことは、ユダヤ教会における当時の神の聖言の事態を表象したのである、すなわち、それが欲念の誤謬により窒息させられたことを表象したのである。主がそのときかれらから『ユダヤ人の王』としてはやし立てられたもうたが、その言葉は真理の神的なものを意味したのである。

 

 

3.ヒソプ

 

天界の秘義7918

 

「ヒソプの一束をとり」。これは清めされることが行われる外なる手段を意味していることは『ヒソプ』の意義から明白であり、それは清めることの手段である外なる真理である(そのことについては以下に述べよう)。かれらが『一束のヒソプをとらなくてはならない』と言われているのは、『束』は諸真理とその排列とについて述べられているためである(5530、5881、7408番)。『ヒソプ』が清める手段としての外なる真理を意味しているのは、霊的に清められることはすべて真理により行われるためである。なぜなら人間が(そこから)清められなくてはならない地的な、また世的な愛は真理によらなくては認められはしないのであり、この真理が主から(徐々に)注がれるときは、それと同時にまたこれらの愛に対しては不潔な、呪わるべき物に対する恐怖のような恐怖も注ぎ入れられ、その結果何かそうした種類のものが思考の中へ流れ入ると、この恐怖感も帰ってくるのであり、従ってそうした物に対する嫌悪も帰ってくるのである。かくて人間は真理により外なる手段により浄められるものとして浄められるのである。

 

4.にがよもぎ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P162

‘00・・・(日付を思い出せません)

 

多くの心を捕らえながら 神との出遇いをもたらさない、この世の富に希望を置きながら、それでもなお幸せを感じられようか? こうした富がとこしえには永らえず 永遠のいのちも栄光も もたらさないと知ったなら? 否、霊魂がこの世の富にだけ捕われているなら、誰も幸せではあり得ない。 その結果は にがよもぎのように苦々しい。 しかし 私に顔を向ける人は 幸せ。 その貧しさを通して 私が富んだ者にすることができる。 我が心のうちに含まれる すべての富によって私は その人を豊かにできる。

 

 

5.すげ

 

天界の秘義5201

 

『すげ』または川の近くに生える大きな草の意義は自然的な人の記憶知である。『草』または『牧草』はこれらの知識を意味していることは聖言から明らかである。それで『すげをたべること』は、記憶知を教えられて、この知識により真理と善とについて学ぶことである、

 

 

6.植物は雄性のみであって、地は共通の母

 

真の基督教585

 

 植物の繁茂と、人間の生殖との間に相応があることは、多くの学者達によって指摘されている。それ故、私はこの主題に関し若干の事柄を附加しよう。木と植物界の凡ゆる物の中には単に一つの性即ち雄性があるのみであり、地はその共通の母であって云わば雌性である。何故ならそれは凡ゆる植物の種子を受け、これを開き、謂わばこれを胎内に運び、次いでこれを育て、日の光の中へ携え出し、後、これに着せ、これを支えるからである。地は始めて種子を開くと、それは心臓に似た根から液汁を血液のように送り、かくして手足に飾られた一種の身体を形成する。幹はその身体であり、小枝をつけた枝はその手足である。それが生れ出ると直ぐ現れてくる葉は肺臓に当っている。何故なら、心臓は肺臓無しには人間の中に知覚も、運動も、生命も維持しないように、根も葉もなくしては木を成長させることは出来ないからである。果実に先立つ花は液汁をその粗悪な部分から純粋な部分を分離することによって浄化する手段であり、また新しい柔らかい茎を形作り、その茎を通って浄化された液汁は流れ、徐々に果実を産み出し(その果実は睾丸に譬え得よう)その果実の中に新しい種子が形成される。液汁の各分子を生かすところの生成の霊魂或は結実の本質は、霊界の熱から由来し、この熱は霊的な太陽から発し、生成を助長し、かくて、創造の継続に資する。而して、霊的な太陽は第一次的には人間を生成する傾向を持つ故、生み出される物の凡ての上に人間に類似したものを生ぜしめるのである。

 植物は雄性のみであって、地は共通の母であることを疑う者は蜂を研究しなくてはならぬ。蜂はスワンメルダムの「自然の聖書」に依れば、単に一人の共通の母を持つに過ぎず、その母から全ての蜂が生み出されるのである。若しこの小さな動物達が一人の共通の母のみしか持たないならば、何故そのことが植物に言われないであろうか。地は教会に相応しており、(『黙示録の啓示』285、902番)それが聖言に教会も共通の母と呼ばれている理由である。地は種子の結実の本質に浸透し、これを拡げる力を持っている。それはこの小さな分子は凡て、浸透する力を持つ微妙な物を発散するからであり、この力を霊界の熱から受けているからである。

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P185

 

「きょうは“姦通をするな”について話します。この姦通者とはだれであるか、自分の周りに探ってはならない。お互いに愛を持ちなさい。他人があなたの顔に淫乱を読んだとしたらどうしますか。それなら隣りの人の困惑している目、赤面して目を伏せるその顔を読もうとしてはならない。

 それから・・・特におまえたち男に言うが、おまえたちの中で、かつて灰とくずのパンを一度もかじっていない人がいますか。淫蕩とは淫売婦の腕を一時間枕にすることだけを指すのではなく、妻との絆を汚して、単なる性の快楽を求めるもの、避妊もそうです。婚姻は出産を意味し、性交は受胎を意味します。これがなければ行為は不道徳なものとなり、床は淫行の場となります。結婚が出産によって聖別されなければ、淫乱で汚されるだけです。大地は種子を拒まず、迎えて木にします。種子は蒔かれて後は土から逃げることがなく、やがて根を出して成長し、土くれと種子との絆によって植物が誕生するのです。男は種子で、女は大地、穂は子供です。穂を作るのを拒むならば、性は罪に変わり、夫婦の寝室で営まれる淫行にすぎず“一体となって子供を増やせ”という神の掟に背くことになります。

 自分から避妊している女たちよ。社会では法律上の妻であっても、神の目にはそうではない。夫だけのものであっても、淫売婦と同じです。往々にして母性よりも快楽のみ追い求めているからで、その快楽とは麻薬のようで、足ることを知らず、家庭の外にもその満足を求め、結局は自分自身と快楽を分かち合う仲間とに嘔吐をもよおし、自分自身を軽蔑するだけです。

 “淫行をするな”と言われているが、肉体の多くの行為は淫行にすぎません。レビの書が、次のことばで弾劾する悪夢のような交際に、私は触れたくもない。

“おまえは、女と寝るようにして男と寝てはならぬ。それは忌まわしい限りだ。おまえは動物と寝床の交わりをしてはならぬ。これをすれば、おまえは身を汚したものとなる。また女も動物を引き寄せて、それと交わってはならぬ。それは忌まわしい行為である”(訳注レビ記18・22−23)

 

 

 

 

7.シュロ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6卷中P53/390・7

 

 あなたたちの土地に生えているシュロの木のような信仰を持ちなさい。小さな種から芽吹いて、ただひたすら上へと成長します。地を忘れ、太陽や星や空を慕うかのように。を信じなさい。イスラエルのほんの少しの人しか信じていないことを信じなさい。そうすれば、あなたがたは原罪を赦され、天のを約束されます。そして、の教えを実行するすべての人に、正しい報いがあるでしょう。その教えとは、完全なら十戒の甘美なる完成です。