触覚

 

 

天界の秘義3528

 

「恐らくわたしの父はわたしにさわるでしょう」。これは認識の最も内なる度[最も内なる度の認識]を意味していることは以下から明白である、すなわち、『さわること』の意義は、かくて知覚することの意義は認識の最も内なるものと凡てのものであり、『父』の意義は善であり、ここでは、主がとり扱われたもうているため、神的善である。『さわる「ふれる」こと』が認識の最も内なるものとその凡てのものとを意味しているのは、知覚はすべて触覚に関わりを持っており、また触覚は認識から派生し、そこから存在するためである、なぜなら知覚は外なる認識以外の何ものでもなく、認識は内なる知覚以外の何ものでもないからである。認識の何であるかは前に見ることができよう(104、371、495、503、521、536、1383−1398、1616、1919、2145、2171、2831番)。さらに極めて種々のものがあるように見える知覚のすべてと認識のすべてとは、一つの共通の全般的な感覚、すなわち、触覚の感覚に帰せられることができるのであり、外なる知覚である味覚、嗅覚、聴覚、視覚のような種類のものは、内なる知覚から、すなわち、認識から発しているところの色々な種類の触覚以外の何ものでもないのである。これは多くの経験から確認されることができるのであって、主の神的慈悲の下にその適当な所に示されるであろう。このことから『触れること』はその内意では認識の最も内なるものとその凡てのものとを意味していることが明白である。さらに内なる知覚であるところの認識はことごとく善から発生してくるが、しかしそれは真理を通して善から発しないかぎり、真理から発しないのである、なぜなら主の神的生命は善へ流入し、善を通して真理へ流入し、かくして認識を生むからである。このことから『恐らくわたしの父はわたしにさわる[ふれる]でしょう』によって意味されていることが、すなわち、善から発し、かくて主の神的なものから発している認識の最も内なるものとその凡てのものとが認められることができよう。

 

 

 

天界の秘義3562

 

「かれはかれにさわった[ふれた]」。これは認識の凡てを意味していることは『さわる[ふれる]こと』の意義から明白であり、それは最も内なる完全な認識であり(前の3528、3559番を参照)、ここでは認識の凡てである、なぜなら凡ゆる物を認識することは最も内なるものである認識から発しており、すなわち、最も内なる認識の中にいる者たちは下に存在している凡ての物を認識するからである、なぜなら最も内なるものはその下に在る物の凡てにおける凡てであるからには、下に在る物はそこから派生し、そこから構成されているもの以外の何ものでもないからである、なぜなら何であれ下に在る物はことごとく内的な物から発しない限り、または、それと同一のことではあるが、結果が有効原因から発するように、それにまさった物から発しない限り、それは存在するようにはならないからである。そしてこのことが目的が他生で人間を幸福にまたは不幸にする理由を示している、なぜなら目的が原因の中に存在しない限り、いな、それがその凡てのものでない限り、原因は存在しないほどにも、目的は凡ゆる原因の最も内なるものであるからであり、同じく目的は凡ゆる結果の最も内なるものである、なぜなら結果はこのような原因から発するからである。それがそうであるため、何であれ人間にぞくしているものはことごとく人間の中に在る目的からその存在を得ており、そこから他生ではかれの状態はかれの目的のあるがままのものとなっている(1317、1568、1571、1645、1909、2425番を参照)。このことからさわる[ふれる]ことは最も内なる認識を意味しているため、それでそれは凡ゆる認識を意味していることを認めることができよう。

 

 

 

霊界日記6094「手の触感の中に情愛が思考から存在していることについて」

 

 生きた経験から、手の触感の中には情愛が思考と共になって存在していることが私に明らかになった。私は手で或る一人の天使に触れると、その天使は、その触感のみで、私はあなたの情愛とそれと結びついている思考とを認めます、と言った。このことから、霊界の者たちが仕事に携わっていることが何処から発しているかが明らかであり、それは、業において、思考が何か生きたものに決定づけられるためである。そのことが、また、主は多くの人々に触れられた理由であり、祭司職に就任することがその頭に手を置くことにより行われている理由である。

 

 

 

結婚愛210

 

「結婚愛に特有な感覚は触覚である」。凡ての愛は感覚を持っている。理解の愛[理解しようとする愛]から発している見ることを求める愛は視覚を持っており、その快楽は均斉と美であり、聞いて服従しようとする愛から発している聞くことを求める愛は聴覚を持っており、その快楽はハーモニー[諧音]であり、認識しようとする愛から、空中に浮遊している物を知ろうとする愛は嗅覚をもっており、その快楽は芳香であり、善と真理とを自己に吸引しようとする愛から、自己を養おうとする愛は味覚を持ち、その歓喜は美味であり、辺りを見回して、自己を守ろうとする愛から、対象を知ろうとする愛は触覚を持ち、その快楽は摩擦[くすぐること]である。

 善と真理とを結合しようとする愛から、自分の自己を自分の配偶者に連結しようとする愛が触覚を持っている理由は、この感覚は凡ての感覚に共通しており、かくてその凡てから寄与を得ているということである。この愛は前述の凡ての感覚を吸引してそれ自身に交じらせ(コミュニオン)、それらの快楽をそれ自身のものとしていることは良く知られている。触覚は結婚愛に専有され結婚愛自身の感覚であることはその凡ての遊戯から明らかであり、その精妙なものが無上の微妙なものへも高められることからも明らかである。しかしこれを更に探求することは愛人たちに委ねよう。

 

 

 

天界と地獄402

 

 天界の楽しさは凡て用に連結し、用の中に存在している、なぜなら用は天使たちの抱いている愛と仁慈との善であり、それゆえ各々の者はその用に従って楽しさを持ち、同じく用に対するその情愛の度における楽しさを持っている。天界の楽しさはすべて用の楽しさであることは、人間の身体の五官と比較することにより明らかとなるであろう。各感覚にはその用に従って楽しさが与えられ、視覚、聴覚、嗅覚、触覚には各々それ自身の楽しさが与えられている、即ち、視覚には、美と形から、聴覚には調和のある音から、嗅覚には快い匂りから、味覚には美味から楽しさが与えられている。その五官各々が遂行する用はそれらを研究する者たちに知られており、相応に通じている者には更に完全に知られている。視覚がそうした楽しさを持っているのは、それが内なる視覚である理解に対して遂行する用から発しており、聴覚がそうした楽しさを持っているのは、それが聞くことによって理解と意志とに対して遂行する用から発しており、嗅覚がそうした楽しさを持っているのは、それが頭脳とまた肺臓とに対して遂行する用から発しており、味覚がそうした楽しさを持っているのは、それが胃に対して遂行する用と、そこから身体全体に栄養を与えることによって、その身体全体に対し遂行する用から発している。触覚の更に純粋で、更に精妙な楽しさである結婚の楽しさは、人類を生み出し、引いては天界の天使たちを生み出すその用のために、他の凡てのものにまさっている。こうした歓喜は天界の流入からその感覚器官に宿っており、天界では楽しさはすべて用から生まれ、用に従っているのである。