処女

 

 

 

天界の秘義828

 

凌辱欲に取りつかれ、結婚と子供の目的も無く、処女性とそれを奪うことに最大の歓びを見出し、処女からその花を奪った後は、その生贄を棄て去り、嫌忌し、娼婦にさせてしまう者らは他生で最も甚しい刑罰を受ける、それはこうした生活は自然的な、霊的な、天的な秩序に反しているからであり、またそれは天界で最も聖いものとして考えられている結婚愛に反するのみでなく、無垢にも反しており、この無垢を彼らはもし彼らの生贄とならないならば結婚愛に滲み込む無垢な者を唆して売淫生活へ投げ入れることにより犯し、殺してしまうからである、なぜなら処女たちを貞潔な結婚愛へ入れ、結婚した一対の者たちの心を連結するものは愛の最初の花であるから。そして天界の聖さは結婚愛と無垢とに基礎づけられており、それでこうした人間は内的な殺人者であるため、彼らは荒れ狂う馬の上に坐って、馬から揺すぶられて、投げ上げられ、投げ出され、自分の生命も危険に陥るように彼ら自身に思われるが、こうした恐怖に彼らは襲われるのである。その後彼らは凶暴な馬の腹の下にいるように彼ら自身に思われ、間もなく、馬の後部を通って腹の中へ入るように彼ら自身に思われる、するとその時不意に彼らは汚らわしい娼婦の腹の中にいるように彼らには思われるが、この娼婦は大きな竜に変り、そこに彼らは苛責〔拷問〕に包まれて止まる。この刑罰は数百数千年の間に幾度も帰ってきて、遂にこうした欲望の恐怖が彼らに滲み込むようになる。彼らの子供についてはその子供たちはその父から多少父に似た遺伝を得ているため、他の子供よりも性質が悪く、それ故このような交わりからは子供はめったに生まれはしないのであり、生まれた者でも長くこの世には止まらないと私は告げられたのである。

 

 

 

 

天界の秘義3081[2]

 

 聖言では『処女』により主の王国にいる者たちが意味され、またはそれと同一のことではあるが、主の王国がその中に存在している者たちが意味されていることは、ヨハネの書に―

 

 これらは女に汚されない者たちである、なぜならかれらは処女であるからである、これらの者は何処であれ小羊が行かれる所に従って行く者たちである、なぜならかれらは神の王座の前に汚れのないものであるからである(黙示録14・45)。

 

ここには小羊に従って行く者たちが、すなわち、主の王国にいる者たちが明らかに『処女』と呼ばれており、また『汚れ』のないものであると言われている。

 

 

 

天界の秘義3081[3]

 

 本来の意味では、主に対する愛の中にいる者たちが、すなわち、天的な者たちが、かくて善に対する情愛の中にいる者たちが『処女』である。隣人に対する仁慈の中にいる者たちもまた、すなわち、霊的な者たちも、かくて真理に対する情愛の中にいる者たちもまた『処女』と呼ばれており、そのことは聖言の記事から認めることができよう。かくてイザヤ書には―

 

 シオンの娘、処女はおまえをさげすみ、おまえを愚弄した、エルサレムの娘はおまえの後にその頭を振った(イザヤ37・22)。

 

 これはアッシルの王について言われており、『シオンの娘、処女』は天的な教会を、『エルサレムの娘』は霊的な教会を意味している。

 

 

 

天界の秘義3081[7]

 

同書には―

 

 ああ神よ、かれらはあなたが行かれるのを、聖所の中にわたしの神が行かれるのを見ました。歌う者たちは前に、竪琴を弾く者たちは後に従いました。手鼓をたたく乙女たちの真中の中に(詩篇68・24、25)。

 

『手鼓をたたく乙女たち』もまた真理の情愛を意味し、『処女』という言葉は無垢を表わすため、『乙女』とは区別されて用いられているのである。『処女』は結婚愛からそのように呼ばれ、かくて無垢の中にいる者たちを意味している、なぜなら結婚愛は無垢そのものであるから(2736番を参照)。それでヨハネの書の中には黙示録から引用した記事の中にかれらは『何処であれ小羊が行かれる所に従って行く』と言われている、なぜなら『小羊』により無垢の方面の主が意味されており、天界にいる者たちはすべてその者たちの善の中にある無垢により『処女』と呼ばれているからである。善の中の量と質とに応じて、かれらは『小羊』に従っている。

 

 

 

天界の秘義6742

 

聖言には『処女』とまた『女の子(少女)』が記されているが、後の者は原語ではここに用いられている名前ではめったに記されてはいないのである。『処女』は天的な教会の善を意味しているが、『女の子(少女)』は霊的な教会のものである善の真理を意味している。

 

 

 

真の基督教205

 

処女は真理への情愛を意味した

 

 

 

真の基督教199

 

処女達は教会を意味した

 

 

 

真の基督教694

 

ミューズたちがそのように呼ばれるのは処女は知識への愛を意味し、人は各々その知識の愛に応じて理知的になるからである。

 

 

 

真の基督教748

 

処女は教会を意味し、教会は両性から成り立っています。それ故、私たちはまた教会の会員として処女であります。そのことは黙示録の以下の語によって明白であります、「これらは女に汚されぬ者なり。彼らは処女なればなり、彼らは小羊の行き給う所に従うなり」(黙示録14・4)。

 

 

 

天界と地獄368

 

従って聖言では若者と男によりその霊的意義では真理の理解が意味され、処女と女により善に対する情愛が意味され、教会は、善と真理に対する情愛から、女、処女と呼ばれ、また善に対する情愛にいる者たちは凡て処女と呼ばれている(例えば黙示録14・4)(注2)

 

注2

処女は善に対する情愛を意味し、3067、3110、3179、3189、6729、6742、教会もまたそれを意味している、2362、3081、3963、4638、6729、6775、6788。

 

 

処女の性が悪い者らとおだやかに争ったことについて

霊界日記4377

 

 

 

霊界日記6110(19)

 

 美しい天的な、また霊的な女は美そのもの、または美と善との形である。主から、宇宙における創造された業のことごとくについては、処女にもまさって美しい物は何一つ無いことが明らかとなっている。

 

 

 

結婚愛460[1]

 

ペリカシィは一人以上の者と行われてはならない理由は、一人以上との者との場合では、その中に一夫多妻的なものがあり、それが人間を単なる自然的な状態へ入れ、感覚的状態へ突き落とし、かくて彼はその中に結婚愛が存在しなくてはならない霊的状態へ挙げられることが出来ない、ということである(338、339)。

 

 

 

結婚愛460[2]

 

それ(ペリカシィ)は処女または汚れを知らない女と行われてはならないことは、女たちのもとでは結婚愛はその処女性と一つのものとなっているからである。ここからその愛の貞潔、純潔、聖さが生まれている。それでその処女性をある男に誓約して与えることは、彼女は彼を永遠に愛するという印を与えることである。そうした理由から処女は結婚の契約の約束を得ない限り、合理的な同意をもってそれを安価に売り払うことは出来ない。それはまた彼女の栄誉の冠である。それで結婚の契約もなしに事前にそれを強奪し、後になって彼女を棄て去ることは、花嫁となり、貞潔な妻ともなることの出来た処女を娼婦にすることであり、または人間を欺くことでもあって、その何れも罪に定められるのである。それで処女を情人として自分自身にとる者は実際彼女と同棲して、かくて彼女を愛の友情の中へ導き入れてよろしいが、しかしそれでもそれはもし彼女が売淫をしないなら、彼女を彼の妻にする、またはならせるという意図を絶えず伴っていなくてはならない。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P283

 

そして今は、私は完全な生贄をもって、また人間に恩寵をもってくるために来たにしても、アダムのわざに対しての裁きは、そのまま残り、それはいつまでも“原罪”と呼ばれるであろう。人間があがなわれ、すべての清めにまさる清めによって洗われるであろうが、凡ての人間は、そのしるしをもって生まれるのである。なぜなら、神が、女から生まれるすべての人にあるべきであるとお定めになったからである。これに例外であるのは、人間のわざによってではなく、聖霊によって造られ、または前もって免除されたもの(聖母マリア)また、前もって聖とされたもの(洗者ヨハネ)だけである。前者は神を産む処女であるためで、後者は救い主の無限の功徳によって、生まれる前に清められて、罪のないものの先駆者となるためであった。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P150/

172・5−7

 

あなたたちは謙遜で、清く、愛深く、信頼に満ちた誠実な心の人となりなさい。花婿の前で慎ましく恥らう処女の愛をもってを愛しなさい。真実にあなたたちに言いますが、どの霊魂も永遠の愛する御者(アマト―レ)、われらのなるに嫁いだ一人の処女なのです。この地球は婚約時代であり、そこで一人ひとりに与えられる守護の天使は、わたしたちの人生の全時間を通して花婿の家へ案内する霊的付き添い人であり、また臨終の時に婚礼衣裳を整える侍女でもあるのです。死の時は完結した婚礼の時であり、その時、認識、抱擁、融合がなされ、霊魂は完結した花嫁の資格でそのベールを上げ、そのの腕の中に身を投じることが出来るのです。このように花婿を愛するために、他者をスキャンダルに誘うことも無く。

 

 しかし今は、おお、まだとの婚約関係に置かれている霊魂よ、花婿に語りかけたい時には、あなたたちの住まいの平和のうちに、また何にもましてあなたたちの内奥の住まいに身を置き、守護の天使に付き添われた肉の天使よ、天使たちのに話しなさい。あなたたちの心の、あなたたちの内面の部屋で密かにあなたたちのと語りなさい。世である一切のもの、すなわち注目を引こうとする切望、お手本になろうとする下心、言葉、言葉、言葉で埋められる単調で生温く、また愛の血の気の失せた冗長な祈りに対する小心翼々とした観念など、すべて外に放っておきなさい。

 

 

 

 

霊界日記6110(52)

 

敬虔を吸引して一種の憂鬱な感情を抱いた処女たちは気難しい妻となり、天界では幸福な者たちの間にいることはできない―経験から。従って修道院に生活した者たちはその者たちの間にいることはできない。