処女懐胎
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP53
永遠から存在する神的な人間的なものについて述べよう。究極的のものに至る迄すらも人間となることは父なる神の愛の性質であったのであり、そのことは処女から生まれることによってのみ行なわれることができたのである。
神の愛と知恵234
永遠から存在される主、即ち、エホバが世で人間的なものを取ることによりこの第三の度を着けられたのは、主は人間の性質に似た性質によらなくては、引いては、その神的なものによる懐妊と、処女からの出生によらなくては、この度に入られることが出来なかったからである、なぜなら彼はこの方法により、神的なものの容器ではあるが、それ自身では死んでいる性質を脱ぎ捨てて、神的なものを着けられることが出来たからである。これは「新エルサレムの主の教義」に取り扱われて、卑下の状態と栄化の状態と呼ばれているところの、世における主の二つの状態により意味されている。
天界の秘義1414
しかしそれでも処女である母から生まれ給うたのであり、生来その処女である母から人間全般の脆さのような脆さを取得されていたのである。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下P115/354.12
御言葉の受肉を預言した預言者たちのことを思い出してください。さらに、ほかの民族ならいざ知らず、われわれイスラエル人が、その名を口にすることがないほどの御方が、人類の法則、ましてや堕落した人間の法則にしたがって受肉するはずがないことを確信している点を思い出してほしい。この上なく純粋な、被造物ならざる存在が、人間への愛のために、身を貶めて人間となるとすれば、その聖性を肉体で覆うためには、百合よりも純潔な処女の胎内を選ぶしかないであろうということを。
聖母マリアの詩上P91
ヨゼフが
「マリア、私はあわれな無智な人間にすぎず、貧しい労働者でしかありません。学問もなく、財産もない。けれども、あなたの足元に私の宝物として、永久に私の“絶対的”純潔を置きます。“私のいいなずけの姉妹、閉じられた庭園、封じられた泉”神の処女(雅歌4・12)である、あなたのそばにいるにふさわしい者でありますように。私たちの祖先が雅歌を書いた時に、多分あなたのことを書いたのでしょう・・・。私は最も貴重な果物のある香り高い庭園の番人となります。その庭園からやさしく生きる水がほとばしる。」