信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる
マタイ21・22
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P89
ゼベデオの子ら、ヤコボとヨハネは、他の人たちから少し離れて、今も口々に話し合っている。
「先生、あなたは完全に愛の人ですから、罰を下さないのでしょうが、我々は彼らに罰が下るのを願ってもよろしいでしょうか?あなたはいつか、信仰を持って願うことは何でも聞き届けられる・・・と言われたことがあります・・・」
ちょっと背をかがめ、疲れたように歩いていたイエズスはその時、突然背を伸ばし、光る目を彼らに向ける。二人は、その目を見て、恐れて口を閉じる。イエズスはしばし二人を見ていたが、それからこう言う。
「あなたたちには、まだ私の教えが分かっていない。人の子は霊魂を滅ぼしに来たのではなく、救いに来たのです。先に言ったたとえをもう忘れたのですか。私は小麦と毒麦のたとえでこう語ったのではありませんか。
『今のところ、小麦と毒麦が共に伸びることを許しておきなさい。毒麦だけを引き抜こうとしても、小麦も一緒に抜いてしまうかも知れません。(後略)』」
(中略)
「“今日は他人を罰して欲しいと頼むが、明日は何一つ頼みもせずに勝手に罰します。その次には理由もなしに人を罰します。道を下るのは易しい・・・だから、隣人に対して頑固になってはならないと、私は教えています。私のするようにしなさい。そうすれば間違うことはありません“
自分を苦しめる人に対して、私が何か仕返しをしたことがありましたか?」
黙示録講解815ロ[10]
これはその言葉以外のものに従って理解されなくてはならないことは弟子たちに以下のように言われていることから明白である、すなわち『もしかれらがからし種一粒ほどの信仰をもっているなら、かれらは山を、または桑の木をその所から引き出し、それを海の中へ投げ込むことができるであろう』、また『何であれかれらが求める凡ゆるものをかれらは受けるにちがいない』、それでもたれでもが信仰を単に持ってさえいるなら、その求めるものを受けることは、また弟子たちが山を、または木をその場所から引きずり出し、それを海の中へ投げ込むことは神的秩序に従ってはいないのである。しかしここの信仰は主から発している信仰を意味しており、従ってそれは『神の信仰[神を信じる信仰]』と呼ばれており、主からの信仰の中にいる者_は主の王国にまた救いのために自分自身に貢献するもの以外のものは何一つ求めはしないのであり、他の事柄はかれは望まないのであり、その心の中で、なぜわたしはこの用に貢献しないものを求めなくてはならないのであるか、と言うのである。
詩篇66・18−19
わたしが心に悪事を見ているなら
主は聞いてくださらないでしょう。
しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け
聞き入れてくださいました。