死
1.再生
2.教会の死
3.人間はなぜ死なないか
4.マリア・ワルトルタ
5.主の死
6.アグレダのマリア
7.ラザロの死
8.霊的な死
9.サンダー・シング
1.再生
天界の秘義6176
復活して霊的な生命へ目ざめることであり(3326,3498、3505、4618、4621,6036)かくて再生すること。
なぜなら再生しつつある者は霊的な死から復活して、新しい生命へ目ざめるからである。
2.教会の死
天界の秘義2908
教会について述べられているときは信仰がことごとく、すなわち仁慈がことごとく消滅してしまった教会の最後の時を意味しており、その時は聖言にはあまねく「夜」と呼ばれており、「死ぬこと」はそのようなものでなくなることを意味している(494)。
3.人間はなぜ死なないか
天界の秘義5114
人間のもとには神的なものと関連したものがあり、その最も内なるものは、人間が神的なものを受けることができ、また単にそれを受けるのみでなく、承認と情愛とによって、かくて相互作用によってそれを自分自身のものにすることができるような性質をもっているため、それでかれは決して死ぬことはできないのである。
なぜならかれはこのようにして神的なものの中に植えつけられ、それゆえ永遠で無限なものの中に単にそこから発している流入を通してのみでなく、またそれを受け入れることを通して植えつけられるからである。
動物は神的なものを承認し、愛することを通してそれを相互的に己がものとすることもできないし、従ってそれと連結することもできない。動物の状態がこのような性質のものである結果、その生命の受容形体は消滅しないわけにはいかない。なぜなら獣にあっては流入はその有機体を通り過ぎて世に降り、そこに終止して決して帰りはしないからである。
4.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199
「それなら彼は死んでいません。私を信じる者は生きるからです。真の命は肉体が生きる今にあるのではない。命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます。神を信じてその信仰に従って生きたのが、たとえ一日、一時間だけであっても、そう生きたなら、その人はもう死を知りません。すべての人間の父である私の父は、信仰と法と義において送った時間の長さではなく、『死ぬまでそれを守って生きたいという意志』をごらんになります。私を信じ、私が言う通り行う人、救い主を愛し、この愛を広げて、自分の生きる限り、私の教えを実行する人に、私は永遠の命を約束します。私のぶどう畑に働きに来て、『主よ、あなたの労働者に加えてください』と言って、その意志を変えず、最後まで努力するすべての人は生きます。たとえ自分の命の最後の一時間だけでも、私のぶどう畑で熱心に働けば、最初の時間から働いても、大して熱心ではなく、ただ罰を恐れて働いた人々よりも先に報いを得ます。なぜなら、私の父は直ちに光栄を与えて報いるやり方はなさいません。永遠の罰を避けるに必要なだけの僅かな善だけを行おうと勘定するような人々に、永遠の裁き手は長い償いを与えます。そのような人々は、熱心に、神の光栄を探す真の愛とは何かを、長い償いの間に学ばねばなりません。ここで特に言っておきますが、未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い。神のぶどう畑に招かれて、聖寵に従って愛の英雄的な行為に達した人々です。女よ、安心しなさい。あなたの夫は死んではいない。生きています。あなたは彼を失ったのではなく、少しの間離れているだけです。今は、花婿の家にまだ入ったことのない花嫁として、不滅の婚姻を準備せねばなりません。徳を得るために働き、もう別れのない、愛を失う恐れも罰もない二人の霊魂の幸せな婚姻に備えることです。霊魂は神に対して、また互いの愛の中で喜び勇むでしょう。『義人にとって死は命である。霊魂の生命力を危うくすることは何もなく、永久に正義の中に生き残れる』ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい。世間は私への信仰を滅ぼす危険があるから、神はあなたの夫をその危険から救われたのです。あなたを愛してくださったために」
マリア・ヴァルトルタ/天使館/第5巻上/P51
死はそれ自体罪の償いです。二度死ぬことによってあなたは罪の汚れから完全に浄化され、直ちに天の喜びに入るでしょう。ただこの考えは、あなたが聖なる人として生き、だからあなたには不本意な、また小罪のみがある人として、人生を送らせるためです。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P177
あなたたちは、ヨハネの書物のなかに『死者を裁く時』という言葉を読むとき、死者とは、すでに、もしかしたら、何世紀にもわたって、そこに足を踏み入れる時のみ誰かは気づくであろう神秘の別の領域で時を過ごした人々のことを指していると考えなさい。そうだ。死とは、魂が地上とは異なる別の地帯に移住することを意味している。だがヨハネの言葉にはもっと深い意味がある。彼の語る死者たちは、肉によれば生者たちでありえても、見る目を持つ者には実は死者たちなのだ。
マリア・ヴァルトルタ「手記」/天使館/P110
しかし、わたしのうちにとどまるあなたたちはキリストの約束に耳を傾けなさい。忠実と愛をもってわたしを待ちなさい。そうすればわたしは、わたしのすべての贈り物をたずさえて、あなたたちを訪れる。それは贈物のなかの贈物、すなわちわたし自身だ。贖い、治療をしに来るだろう。闇を照らし、闇に勝ち、闇を追い払うために来るだろう。人間たちに永遠の神、いと高き主、聖なるキリスト、父と子と聖霊を愛し礼拝することを教えに来るだろう。平和の永遠の破壊者である現世の平和ではなく、滅びることのない神の国の平和をもたらすために来るだろう。
忠実なしもべたちよ、よろこび躍れ。あなたたちにそのことを告げる口は偽らない。もうどんな悪も恐れる必要はない。なぜならわたしは悪の時に終止符を打ち、わたしが祝福した者たちを憐れみ、この終わりを早めるつもりだからだ。
とりわけ今、わたしが愛する人たちよ、よろこび躍れ。あなたたちのために、わたしがもっと早めるのはキリストの来臨とその栄光の抱擁だろうから。神の国の扉はすでにあなたたちに開かれており、あなたたちを迎え、真の生命を与えるためにあなたたちの救い主はそこから出て来るだろう。
もう少し時がたてば、わたしはあなたたちのために来るだろう。わたしの友ラザロのためにしたように、わたしはあなたたち一人一人に『外に出なさい!』と呼びかけるだろう。肉のなかに閉じこめられた霊魂にとっては墓にほかならない地上の生の外に出るのだ。外に。生命へと天の自由へと。
あなたたちの忠実な愛を込めてわたしを呼びなさい。その愛は肉の鎖を溶かす火炎となり、わたしのもとに速やかに来るための自由を霊魂に与えるだろう。人によって書かれたもっとも美しい叫びを上げなさい。『主イエズスよ、来てください!』。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P150/
172・5−7
あなたたちは謙遜で、清く、愛深く、信頼に満ちた誠実な心の人となりなさい。花婿の前で慎ましく恥らう処女の愛をもって神を愛しなさい。真実にあなたたちに言いますが、どの霊魂も永遠の愛する御者(アマト―レ)、われらの神なる主に嫁いだ一人の処女なのです。この地球は婚約時代であり、そこで一人ひとりに与えられる守護の天使は、わたしたちの人生の全時間を通して花婿の家へ案内する霊的付き添い人であり、また臨終の時に婚礼衣裳を整える侍女でもあるのです。死の時は完結した婚礼の時であり、その時、認識、抱擁、融合がなされ、霊魂は完結した花嫁の資格でそのベールを上げ、その神の腕の中に身を投じることが出来るのです。このように花婿を愛するために、他者をスキャンダルに誘うことも無く。
5.主の死
マタイ16・21
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たたいから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
マタイ26・12−13
この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。
マタイ27・50
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
マルコ8・31
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
マルコ15・37
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
マルコ15・44−45
ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
ルカ23・46
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
ヨハネ12・32−33
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
ヨハネ19・30
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
ヨハネ33−35
イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
6.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P337
死の時やその後の審判について忘れることほど大きくて悪い誤謬はありません。この誤謬の門を通って、罪が世の中に入ったことを考えなさい。最初の女エワに蛇が言ったことは、「汝は死なないであろうし、そのことを考える必要がない」(創世記3・4)ということでした。こうしていつも騙され、死について考えずに生き、不幸な運命を忘れて死ぬ人たちの数は非常に多いのです。このような結末を避けるため、あなたの死は取り返しがつかないことを確信し始めなさい。多くを頂き、少ししか返さなかったこと、御恵みが多ければ多いほど審判はもっと厳しくなること、主の御恵みがいつでもどこでもどんな状況でも、忘れず不注意にならず働いていることをよく考えなさい。
アグレダのマリア/神の都市/P344
死は命の延長であり、命の状態と一致しますから、良き死の最も確かな保証は、良き生活です。つまり、この世の愛から心を離して重い鎖から解き放たれて生きることです。原罪の影響から自由になり、生きることです。情欲の重荷や足枷を棄てて生きることです。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P8/587・5
「ラザロ、あなたは、死から生き返った人だから、教えて下さい、死とは何ですか? どんな感じでしたか? 何か覚えていますか?」
「死?・・・あまり覚えていません。ひどい苦しみの後、すごい無力感・・・もう、苦しまずに済む、ただ眠いだけ・・・光も音も、だんだん遠ざかり、はるか遠くに・・・姉妹たちとマッシミーノは、わたしがとても苦しそうだったと言いますが・・・覚えていません・・・」。
「そうでしょう。父の憐れみにより、臨終の人は知覚を鈍らされます。肉体だけが苦しみます。それは、煉獄の苦しみの前の浄化です。でも・・・死のことを、何か覚えていますか?」。
「何も。先生。(後略)」
天界の秘義7217
「心の苦しさのあまり*」
*または『息切れがして』
これは、絶望に近い状態の理由により、を意味していることは、『心の苦しさ』の意義から明らかであり、それは絶望に近い状態である、なぜならこうした状態にいる者たちは心が苦しむからである。この状態はパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷、即ち、彼らは煉瓦を作る藁を彼ら自身で探さなければならないという重荷により意味されていることは、前章の終わりに示されたところである。心の苦しさは絶望に近い状態を意味していることは、絶望に近い状態にいる者たちは内なる心労をなめ、その時は事実息切れがするという事実から認めることが出来る。外なる意味ではこの状態〔息切れの状態〕は胸が押さえつけられて、そのため謂わば呼吸困難に陥ることであるが、内意ではそれは信仰に属した真理と仁慈に属した善とを剥奪されるために生じる心労であって、そこから絶望に近い状態が起きるのである。(呼吸が圧迫される状態と信仰の真理と仁慈の善とを剥奪されて起きる心労とは、心における霊的な原因から生じる身体内の自然的な結果として、相互に相応していることは、前に示したことから認めることが出来よう、97、1119、3886、3887、3889、3892、3893番)。霊的な真理と善とを剥奪されると、こうした心労が生まれ、従ってこうした苦しさが生まれることは、信仰と仁慈とにいない者によっては信じられる事は出来ない、なぜならそうした者は、こうした理由で苦しむことは心が軟弱で病んでいるからであると考えるからである。その理由は、彼らは実質的なものを何一つ信仰と仁慈に置かず、それでその霊魂と天界とに属するものにも置かず、単に富と卓越することにのみ置き、かくて身体と世の事柄にのみ置いているということである。彼らはまた(以下のように)考えるのである、『信仰と仁慈とは単なる言葉でなくて何であろう。良心でさえもが何であるか。こうしたものにより苦しい思いをなめることは、人間が愚かにもその空想から作り出したものから自分の中に見るものにより、即ち、何ら存在もしていないのに、何か存在していると想像しているものにより苦しめられることと同じである。富と高い地位は私らは目で見ることが出来、またそれらはそこから提供される快楽から存在していることを私らは知っている、なぜならそれらは私らの全身をのびのびとさせ、また充分な喜びをそこにかき立てもするからである』。このように単に自然的な人間は考え、またこのように実際彼ら自身の間では話しているのである。しかし霊的な人間はそのようには考えはしないのである、なぜならこうした者たちはその霊の中に、かくてその霊に属したものの中に、即ち、信仰と仁慈の中にその主要な生命を得ており、それで自分自身が信仰と仁慈との諸真理と諸善とを剥奪されると信じると、死の苦悶をなめている者のようにも、悶えるのである、なぜなら彼らは己が前に霊的な死を、即ち、堕地獄を見るからである。前に言ったように、単に自然的な者にはこうした人物は心では弱く、病的なものであるように見えはするが、しかし彼らは強く、また健康なのであり、之に反し単に自然的な者のらは自分自身には強く健康なものであるように思われ、また〔事実〕身体の方面では強く、健康ではあるものの、霊の方面では、〔即ち〕霊的には死んでいるため、全く弱いのである。もし彼らが自分はいかような種類の霊を持っているかを見ることが出来るなら、それがそうであることを承認するであろう、が、彼らは死んでしまうまではその霊を見はしないのである。
死に際して、霊魂は死にもしなければ、どこか遠い場所に飛び去るのでもない。死を通して霊魂は新しい生命を開始し、新しい状態に入るのである。母の胎から生まれ出た赤子は新しい状態に入ることによって新生命を開始するが、赤ん坊の生きている世界あるいは場所そのものは変わらないように、肉体を脱ぎ捨てる霊魂ははるかによい霊的状態に入るが、それが生きている世界は同じままである。母の胎内にいる赤ん坊も、体の中にある霊魂も、未来の状況については知らずにいる。目から隠されているからだ。生まれ出た赤ん坊は自分の元いた子宮をみることはできない。体から出た霊魂もまた、幾つか例外はあっても、自分の元いた物質界をみることはない。霊魂は常に霊界の中に生き、物質界は霊界に包み込まれた粗雑な物質にすぎないからである。子が臍の緒を断ち切ることによって母親の子宮から分離するように、霊魂は銀の紐を切ることによって体から自由になる。子にとっての母の子宮、魂にとっての肉体は、未来への準備の場所である。“魂”は体から離れて、真の運命と完成を得られる神の御前に移る。